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 私がまだ幼かった頃、親たちは選挙というものに対して、ある種の高揚感というものを抱いていたように思います。投票所入場券を神棚や仏前に供え、投票所からの帰りには家族揃って街の洋食屋へ立ち寄り、普段は口に出来ないハンバーグやカレーを食べる。子どもたちにとっても”晴れの日”であったように記憶しています。

これは日本国憲法の第十五条にある「公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である」や公職選挙法(1950年法律第百号)の第一条に記された「この法律は、日本国憲法の精神に則り、衆議院議員、参議院議員並びに地方公共団体の議会の議員及び長を公選する選挙制度を確立し、その選挙が選挙人の自由に表明せる意思によつて公明且つ適正に行われることを確保し、もつて民主政治の健全な発達を期することを目的とする」といった”国民としての権利の行使”といった肩肘張った責任感などではなく、シンプルに「国民のひとりとして国作りに参加出来る」といったささやかな喜びがその背景にあったように思います。

当時はまだ、親世代にとって戦争の記憶は生々しく、軍部の暴走が国を破滅へと追いやったといった意識が強く残る時代でした。参政権を持ち、自由に意思表示出来ることが、いかに尊く、大切であるかを国民は身を以て知っていたと云えるでしょう。広島の被爆者 梶本淑子さんは、私にこう語って下さいました。

 

 ”将来の夢”などといった贅沢とは無縁の淑子だったが、初めて参加した選挙のことは今でもはっきり覚えているという。投票は己斐の小学校へ行った。喜び勇んで行った。

「外にまで伸びた列に並んで待っている間に、これで女性も一人前として見てもらえるというか、わたしらも人間として扱われているといった複雑な想いが次から次へと込み上げて来て、本当に嬉しかった」

 街には、原爆症を患い床に伏し勝ちであったため義母に「役立たずの嫁」と罵られ、毎晩のように夫から殴られ蹴られ、青アザが絶えない 「新女性」たちがそこここにいた。

(拙著『平和の栖〜広島から続く道の先に』から抜粋)

 

一昨日、投開票された東京都議会議員選挙の投票率は、過去2番目の低さであったと報じられています(42.39%)。最高を記録したのは、東龍太郎知事が初当選を果たした都知事選との同日選挙となった1959年の70.13%で、最低は共産党が過去最多の26議席を獲得した1997年の40.80%でした。

実際、投票所となった区立小学校の体育館に足を踏み入れてみると、人影はまばら。一瞬、まだ設営中なのかと戸惑うほどでした。特に浮動票の多い東京都では、天候や交通機関の運行状況が投票行動を左右するとされていますが、原因はより根深いところにあることは云うまでもありません。

 

投票率の低下は、政治不信の反映に他なりません。古今東西、政界は欲望の坩堝。政治家たるもの他者に依存しない、何人も信用しないのはイロハのイ。「庶民の代表」なんて寝言は通用しません。そんな魑魅魍魎が蠢く世界であるからこそ国益、つまるところは国民の幸福を第一に考える施政者が輝きを放つ。そうした明確なヴィジョンやリーダーシップを有した傑人は、この国の政界からすっかり姿を消してしまいました。

人口増加に伴い、一票の重みが軽くなったのは事実です。「一票如きで政治が変えられるわけではない」と、嘯く者もいますが他国はどうかと云えば、経済協力開発機構(CECD)加盟38ヶ国中、我が国の投票率は52.7%で30番目に位置しています(民主主義・選挙支援国際研究所 2021年調べ)。第1位はオーストラリア連邦の91.9%。内、15ヶ国が70%を超えています。投票率の低下は、必ずしも”先進国病”ではないことは明らかです。

 

私たち日本人は戦後、自らの手で独立を勝ち取り、民主主義を手にしたわけではないため、どうしても面倒な政治は誰かがやってくれる。自らが参画しなくても何とかなるものだ、といった他力本願から抜け出せません。一方、ミャンマー連邦共和国やベラルーシ共和国を始めとする世界の多くの国々では今この時にも、一票の重みを軽んじ、選挙結果を反故にする独裁政権に対して市民が命を張って闘いを挑んでいます。

1950年代でしょうか。漫画『サザエさん』に投票日をテーマにした一話があります。年老いた妻を背負った老人にサザエさんが「とうひょうですか」と声をかけ、「うるわしいすがた!」と微笑みかけます。老人は、長年連れ添った妻なのに「じぶんの投票する人の名前ぜったいおしえてくれないんだ」とぼやきますが、これを背中で聞いた妻は、大変な剣幕で「だまっとれ、政治はげんしゅくなもんじゃ!」と夫を叱りつけます。まだ私たちが純粋に、一票の重みを”体感”していた麗しき時代のエピソードと云えるでしょう。

 

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