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   洒脱なひと。それが、私が那須正幹先生に初めてお目にかかった際に抱いた第一印象でした。初夏。担当編集者と共に東京・神保町にある『新世界菜館』のエントランスを潜ると、すでに先生は席についておられ「ここは煙草が吸えないようだね」と、いたずらっ子のような笑みを零されました。無類の映画好きでいらっしゃったため、初対面であったにも関わらず旧き良き名画の数々を肴に大層話が弾みました。「今度、家に来て一緒にビデオを観よう」。

拙著『平和のバトン 広島の高校生たちが描いた8月6日』のゲラを読んで下さった先生からは、有り難いことに「とてもいい本だ。こういう本を子どもたちには読んでもらいたい」と、何度もお褒めの言葉を頂きました。

 

広島市己斐(現・西区己斐本町)で生を受けた那須先生は、3歳の時に自宅で母親の背におぶさっていて被爆(爆心地から3キロ)。1978年に第一作を発表された『ズッコケ三人組』シリーズは、全50巻で累計2,500万部を記録する日本児童文学界における戦後最大のベストセラーとなりました。

自らの被爆体験から核兵器廃絶を熱心に訴え続け、1995年には生存者の証言を元に当時の広島の町の様子や人々の暮らし、広島市内の被曝状況、そして、原爆の開発から投下に至る歴史的背景や核兵器の原理、放射線障害などを画家 西村繁男氏と共に綴った『絵で読む 広島の原爆』を世に問われました。同書は、子供たちに原爆、そしてその非人道性を伝える絵本の最高傑作と云えるでしょう。

 

本の顔である表紙に巻かれるオビは、作品の佇まいを伝えてくれる水先案内人のようなものです。拙著においても、どなたに依頼すべきか、編集者とアイデアを出し合いました。広島をテーマに据えておられる漫画家、広島出身の有名人等々、幾人もの方々が候補に挙がりましたが、児童文学ということで重鎮である那須先生にダメ元でお願いすることで意見が一致しました。早速、編集者がお伺いを立てたところ、本作の題材となった広島市立基町高校の卒業生でもあった先生は、ふたつ返事で引き受けて下さいました。さらには巻末に「本書に寄せて 絵画の力」もしたためて下さるなど、身に余る光栄と心が震えたことを、昨日のことにように覚えています。

 

拙著が刊行されて間もない一昨年秋。東京・神楽坂で那須先生の『喜寿を祝う会』が催され、児童文学界においては”新人”に過ぎなかった私も出席させて頂きました。その大切な席で先生は、錚々たる作家先生たちの前で拙著を手に取りご紹介下さいました。いつもは柔和な笑みを絶やさない那須先生が、「原爆」を語る際に垣間見せた鋭い眼光は今も忘れることが出来ません。

 

 

私にとっての大恩人である那須先生が、今月22日午後2時5分に永眠されました。もっと、もっとお話を伺いたかった。拙著が青少年読書感想文全国コンクールの課題図書に選ばれたことを直接お目にかかってお伝えしたかった。先生がお好きな往年の名画を、一緒に拝見したかった。新型コロナウイルスの感染拡大により身動きが取れず、そのいずれの願いも叶うことはありませんでした。悔やんでも悔やみ切れません。

 

那須先生は、私に何を伝えたかったのだろうか。微力ながらも私は、先生の遺志を胸に、また旅へ出ます。ひとりでも多くの方々に、平和の尊さを知って頂くために、先生の想いの丈を少しでも知るために。先生のご恩は一生忘れません。ご生前のご厚情に深く感謝すると共に、衷心より哀悼の誠を捧げます。