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アトリエ(長崎平和祈念像製作記念室)にて。

 

76年前の今日、午前11時02分。快晴無風の長崎に、戦時における2つ目の原子爆弾が投下されました。地獄絵図となった長崎に想いを馳せるべく私は先週、東京・武蔵野市の井の頭自然文化園内にある彫刻園を訪れました。ここには、彫刻家 北村西望の手による200点余りの作品が展示されています。日本彫刻界の巨人 西望の代表作と云えば、何と云っても長崎市内松山町の平和公園に建つ「長崎平和祈念像」でしょう。

 

1884年(明治17年)、長崎県南高来郡南有馬村白木野(現・南島原市)に生を受けた西望は、東京美術学校(現・東京芸術大学)彫刻科に在学していた当初から才覚を現し、「逞しく、力感溢れる男性像」で戦前の彫刻界をリードしていました。

1950年、長崎市は原爆犠牲者の冥福を祈る記念碑を作ることとなり、西望に相談したところ、彼は「記念碑だと原爆を落とされた長崎だけの問題になる」と喝破し、「戦争では多くの尊い命が奪われた。平和を祈り念じ、世界に、全人類の心に呼びかけるために、祈念像を作るべきだ」と提案。西望の熱意が市を動かし、翌年から長崎平和祈念像の原型作りが始まります。

像のサイズは当初30尺(約9メートル)となっていましたが、西望は40尺(約12メートル)を目標に掲げます(最終的には32尺、約9メートル70センチ)。ところが、これだけ巨大な像を造るとなると特別なアトリエが必要となる。そこで西望は、自ら東京都に掛け合い、この自然文化園内にアトリエを建てる許可を得ます。その御礼として彼は完成後、アトリエを含む施設と全作品を都に寄付すると申し出ました。それは故郷・長崎に対する深い愛情から、この作品を通じて「平和」を表現し、自らの集大成にしようと心に決めた芸術家 西望の乾坤一擲でした。

 

当時のまま残されたアトリエに足を踏み入れると、戦時中に西望が考案した石膏直付け法による制作過程や彫刻技術がわかる試作が幾つも並んでいます。平和公園で見上げる祈念像は、立ち位置から距離がありますが、こうして間近に接すると、西望の鬼気迫る彫刻家魂をひしひしと感じることが出来ます。彼がしたためた「平和祈念像作者の言葉」には、

 

右手は原爆を示し左は平和を

顔は戦争犠牲者の冥福を祈る

 是人種を超越した人間

  時に佛 時に神

長崎始まって最大の英断と情熱

今や人類最高の

    希望の象徴

 

  とあります(1955年)。54年4月にこのアトリエで完成した石膏原型像を西望は、本来は25個でも十分であったにも関わらず、鋳造費用を親子三代で支払う覚悟で104個に分解し、東京・板橋区の工房で鋳造し翌55年8月8日、平和公園において除幕式が執り行われました。北村西望、御年71歳。心血を注いだ生涯の大傑作のお披露目でした。

 

  実際に、原型の前に立つと観る者は、全能の神の力強さと慈悲深い仏の愛に包まれた幼子に回帰したかのような不思議な感覚に襲われます。思わず手を合わせ、西国に向かって頭を垂れました。76年目の夏。これを「最期の被爆に」という長崎の崇高な祈りを改めて心に刻みつつ。合掌。

 

彫刻館 A館にある実物大の石膏像。