20210819-1.JPG
 

 

   先週11日、新潟県・新発田市主催の『しばた平和のつどい』において、被爆体験の継承について講演をさせて頂きました。新型コロナウイルスの感染拡大により、会場参加者は大幅に制限されたものの、多数の中学生を含む約150名の市民の皆様がオンラインであるにも関わらず集い、熱心に耳を傾けて下さいました。

同市副市長様の挨拶に続き、2020年高校生平和大使の鈴木優花さんが活動報告をされ、最後に『過去に学び、未来を描く。』といった演題でお話をさせて頂きました。お陰様で約86%の皆様が「良かった」とアンケートに答えて下さり(「まあ良かった」を合わせると約92%)、「次世代に伝えて行くことの大切さを感じた」といった意見が多数を占めたことに、講師としては大いに勇気づけられました。

 

「疑似体験によって共通言語を見出して行く、といった言葉が新鮮だった」といった感想も頂きましたが、これこそが、私が若者たちに語りかける際に、常に心掛けている点です。いかにして育った環境や世代が(場合によっては国籍や信仰も)異なる若者たちにアプローチするか。特に今回、お話をさせて頂いた新発田市を、私はこれまで一度も訪れたことはありませんでした。ライヴであれば講演前に市内を散策し、その土地特有の”気”をからだに染み込ませるのですが、オンラインともなるとそうは行きません。

 

そこで私は、原爆の威力を説明するにあたり、新発田市の中心部である「国道7号線と460号線、それに羽越本線に囲まれたエリアが、ほんの数秒間ですべて吹き飛んだことになります」と、被爆の範囲を重ね合わせました。これには、モニター越しに息を呑み込む音が聞こえたように感じられました。

また、新潟と広島の”距離”を縮めるべく、新潟市が第3の原爆投下目標であった史実をお話しました。さらには広島市、長崎市に次いで原爆が同市に落とされる可能性が高いと判断した当時の畠田昌福 新潟県知事が市民の命を救うべく、内務省の反対を押し切って1945年8月10日に『知事布告』を発令し、市民の疎開を命じたこと。そのため同13日には、17万市民が続々と郊外へと避難し、緊急要員を残して市街地はもぬけの殻となっていた事実もお伝えしました。こうすることで広島、長崎に対する感じ方、見えて来る風景も自ずと違って来ると考えたからです。

 

広島市立基町高校 創造表現コースの「次世代と描く原爆の絵」プロジェクトに触れながら、”疑似体験”についても語りました。戦時下の生活を知るためには、まずは「おじいちゃんやおばあちゃんに話を聞くことから始めよう」とアドバイスしました。但し、話を聞くだけで終わってはいけない。例えば、当時の食生活を知るためには一緒に、自らの手で小麦粉を捏ねて「すいとん」を作ってみる(祖父や祖母の代であれば今の若者たちと同じく、作るよりは食べる立場だったはずです)。そして食べる。実際に口に入れてみる。するとこれは、飽食の時代を生きる若者たちにとってはまず間違いなく「不味い」わけです。しかしながら、この「不味い!」といった五感から得られる情報が実は大切で、こうした舌の”記憶”が「戦争とはいかに国民に苦痛を与えるもなのか」を、頭だけではなく身体で”疑似体験”出来る。ここに”事実”と”真実”との違いがあります。

屡々、被爆者の方々から「曾孫ほど年が離れた子どもたちに、被爆体験をどう話せばいいのかわからない」といったお話を伺います。そんな折、僭越ながら私は”五感”に訴えるコミュニケーションを図ることをお薦めしています。なぜならばそれが唯一、500年前の人間でも、500年後の人間でも”共有”出来る”記憶”だからです。

 

新潟市に、原爆は投下されませんでした。当時の戦局を考えれば、ある意味、奇跡的に被爆の惨禍から免れた土地でもあります。そんな幸運に恵まれた地に生まれ育った平和の申し子たちには是非、被爆体験の継承に携わってもらいたい。ささやかな願いを胸に私は、遠く離れた東京からモニターのスイッチを切りました。