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   米大に留学した当初、論文は友人の米国人から譲り受けた中古の英文タイプライターを、ガッチンガッチャン打ち鳴らしながら作成していました。最終学年になって、ようやく電動タイプライターなるものを購入し、「世の中にはこんな便利な物があるのか♪」と、感激したのを今でも鮮明に覚えています。とは云え、コピー機などといった高価な機器を持ち合わせていない貧乏学生は推敲後、何度も何度も一からカチャカチャ打ち直す。今から思えば非効率を絵に描いたような時代でした。

 

卒業後、帰国するとマスメディアの世界に身を投じ、新聞や雑誌に記事を書き始めます。原稿用紙のマス目を手書きで埋め、編集部へファックスで送る。おそらく私は、こうした一連のローテク作業に手を染めた最後の世代でしょう。20代後半になり、さすがにデジタルとやらに適応しなければ業界では生き残れないと自覚し、大枚はたいて購入したワープロ専用機(!!) はなぜか設計事務所御用達のリコー製「MY RIPORT 2300」でした。それでも原稿は一旦プリントアウトし、明け方まで編集部でイライラしながら待ち続ける担当編集者の元へファックスで送信していました(それだけが理由ではありませんが、当時は完全な夜型人間でした)。

最初に手にしたコンピューターが「Macintosh LC」だったため、業界人としては誠に遅まきながら1990年頃からデジタル・ワールドに足を踏み入れたことになります(以来、今に至るまで一貫してMacユーザーです)。日本で初めてダイヤルアップIP接続サービスが開始されたのが1994年なので、当たり前のようにメールで原稿を送信し始めたのは1998年頃だったように記憶しています(当時の我が国のインターネット普及率は13.4%)。

 

リコー製「MY RIPORT 2300」

 

アップル製「Macintosh LC」

 

そんなこんなで、いつの間にやらネット全盛の時代と相成りました。それ以前と以降で、作家としてのスタンスが変わったかと云えば、実のところ言葉との向き合い方には驚くほど変化がありません。寧ろ、新聞・雑誌から書籍へと執筆する媒体がシフトしたことの方が遙かに大きかった。云ってみれば中継ぎ投手と完投型先発投手との違いです。単に文章の長短だけではなく、文章作法や構成も大きく様変わりしました。私の場合は、すでにお気づきかとは思いますが起承転結に重きを置き、布石を打ちながら全体をロジカルに構築する”性癖”があるため、どうやら書籍の方が性に合っていたようです。

 

また、ネットが主流となった今でもさして主線が変わらない理由のひとつが、基本的にネットを信じていないことにあります。書籍のテーマを設定し執筆するに際して私は、常に20年後、50年後、出来ることならば100年後にも残る作品にする、して見せる、といった姿勢で臨んでいます。そのため、マスメディアの一員でありながらも”流行り物”に食指が動かないといったウィーク・ポイントがあります(フェイスブックでさえ、最盛期をとうに過ぎたちょうど2年前に始めたくらいですから…)。

こうした作品との向き合い方は、そもそもネットとは相容れません。インターネット上の情報は、基本的には24時間。どんなに長く見積もったところで1週間も保てばいい、といった概念がベースとなっています。10年後なんて云われた日には、使用しているソフトウェアやアブリケーションが存在しているかどうかさえ怪しい(実際、若かりし頃に愛用していたワープロソフトは、今は亡きクラリスワークスであったため、当時したためた世にも恥ずかしい原稿の多くは開けずにいます)。またこのブログに書いている原稿も、サーバーが何かの不具合でトンでしまえば、私の意志などまったくお構いなしに一瞬にして消えてなくなります。

 

その点、劣化が激しいと云われる書籍の方が、保存状態さえ良好であれば意外に”長生き”してくれる。例え不幸にして絶版になったとしても、全国の公立・学校図書館には多数の蔵書が残っているため、日本列島が沈没さえしなければ、消えてなくなることはありません。おそらく、生まれ落ちた時からインターネットが存在していた世代とは、自ずと文章の寿命に対する考え方、旬の感覚、文責の捉え方は異なっているはずです。

 

人は誰しも、この世に何かを残したいと思っています。自分が生きていた証、痕跡です。子どもがいる場合には、それが大きな支えとなります。また、私のような作家であれば、優れた作品を生むことさえ出来れば、自分がこの世から消え失せた後も読み継がれる、愛され続けるかも知れないといった見果てぬ夢を持つことが許されます。自分はこの取るに足らない人生で何かを成し遂げられただろうか、とふと振り返った時、デジタルではない紙の「本」は、ささやかな安堵感をもたらしてくれます。

などといった他愛もない思索に耽りつつ今日も、キーストロークのやたらと深い旧式キーボードをカチャカチャと打ち続ける自分がいます。