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  「目は口ほどに物を云う」といった故事がありますが、「仕草は口ほどに物を云う」とも言い換えられるでしょう。文語によって育まれた日本文化において、いわゆるボディ・ランゲージの出る幕はこれまで必ずしも多くはありませんでした。しかしながら、口語でコミュニケーション技術を進化させて来たラテン語やゲルマン語、スラブ語系に属する民族にとって”仕草”は、意思疎通を図るための大切な補完手段として尊ばれて来た歴史があります。欧米のみならずアジアや中東、アフリカ大陸の国々においても民族や宗教、言語、慣習の異なる様々な人々が共存しているため、ボソボソしゃべっていたのでは意志が伝わりにくい。”仕草”は、話のポイントや感情の起伏を強調する演出として、なくてはならないツールだったわけです。

 

  ボディ・ランゲージと云っても、IT業界の若手社長さんが、さも「私、国際人で〜す」とでも云いたげに、ろくろを廻すように両手をグルグルさせながら話す大仰なスタイルのことではありません。彼らの”板についていない感”は何とも居心地が悪い、というか見ている方が気恥ずかしくなってしまいます。モーションが大きければ大きいほどあざとさが悪目立ちして逆効果となる。口には出さずともネイティブ・スピーカーには、いわゆるバナナ(Banana: 外見は黄色いのに中身は白い、といったアジア人に対する蔑称)と蔑まれてしまうのが関の山です。これはイタい。

  ギンギラギンではなく、あくまでもさり気なく”仕草”を使いこなせるかどうかで、”こなれ感”は違って来ます。とは云え、こればっかしは教則本があるわけでもなし、ネイティブ・スピーカーに尋ねてみたところで、彼らにとっては自然な動きであるため説明の仕様もないでしょう。猿(モンキー)の如くただ動作を真似ればいいというわけではありません。重要なことは、スタイリッシュであること。これに尽きます。

 

  これまで数多くのプロ野球選手が海を渡り、メジャーリーグで活躍して来ました。決められたルーティン・ワークではなく、瞬時の判断が求められる勝負の世界では、言葉の重要性は決して低くはありません。また、ベンチとフィールド、ピッチャーズ・マウンドとバッターズ・サークル、距離が離れた選手同士が意思疎通を図るためにはボディ・ランゲージが欠かせません。

  彼らの中でも見事なまでに”仕草”をマスターしていたのが、イチロー選手と大谷翔平選手です。イチロー選手がどれだけ英語に堪能なのかはわかりませんが、フィールド上の立ち居振る舞いが彼ほどスタイリッシュな選手はいませんでした。彼の場合、独特の打撃フォームが人気となりましたが、守備についた時やネクストバッターズ・サークルに入った時にイチロー選手が見せたちょっとした”仕草”は、米国人も惚れ惚れするほどのカッコ良さでした。そこには、彼ならではの"美学"がありました。

  一方、大谷翔平選手も渡米後まだ4年だと云うのに、会釈の仕方からタイムの取り方、さり気ない首の傾げ方に至るまで、並み居るメジャーリーガーでさえ持ち合わせていないスタイリッシュさを身につけています。こうした自然な動きは、真似したところで身につくものではありません。持って生まれた美意識の賜物でしょう。日本人メジャーリーガーの中でも彼らが、目の肥えた本場のベースボール・ファンを魅了している理由が、卓越したプレーのみならず、米国人でさえ憧れるチャーミングな”仕草”にあることは意外と知られていません。

 

   読売ジャイアンツの創立者であり初代オーナーでもあった正力松太郎の遺訓「巨人軍憲章」のひとつに「巨人軍は紳士たれ」というものがあります。1973年にニューヨーク・ヤンキーズの豪腕オーナー ジョージ・スタインブレナー3世が定めた「身だしなみルール」(New York Yankees Appearance Policy)とも共通する今や時代遅れの考え方ですがイチロー、大谷両選手が醸し出す得も言われぬ”仕草”の美しさは米国民に、品格と節度が保たれていた旧き良き時代、かつてベースボールが国民的スポーツ(National Pastime)として愛されていた全盛期を思い起こさせるのかも知れません。