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   映画に魂を奪われた中学時代、どうしても肌が合わなかったのがハリウッドのミュージカル映画でした(ホラー映画は今でも観ません)。当時からリアリズムにこだわりがあったのでしょう。「芝居の途中でなぜ突然歌い出すの!?」と、当初はストーリーに没入することが出来ませんでした。そんな映画小僧の取るに足らない固定観念を、物の見事にぶち壊してくれたのが”ダンスの神様”フレッド・アステアであり、ジーン・ケリーの神業とも思えるタップダンス。ジュディ・ガーランドやアル・ジョルソンといった往年の名歌手の惚れ々するような美声の数々でした。単細胞だけが取り柄だった私は、高校の門を潜る頃にはすっかりミュージカル映画の虜になっていました♪

 

   そんな綺羅星の如く輝くスターたちの中でも、私が最も惹かれたミュージカル女優がリタ・ヘイワースでした。米ニューヨークのブルックリンで生まれた彼女の本名はマルガリータ・カルメン・カシーノ(Margarita Carmen Cansino)。スペイン系移民の父親とアイランド出身の母親との間に生まれ、3歳半からダンス・レッスンを始めたと云います。17歳で早くも映画デビューを飾りますが、スターダムを駆け上がるきっかけとなったのは、何と云ってもアステアとの初共演を果たした『踊る結婚式』(You’ll Never Get Rich)でしょう。

 

   本日ご紹介する作品は、ヘイワースが主演した数々の名作の中でも私のお気に入りだった『カバー・ガール』(Cover Girl)です(米国では1944年公開)。監督は『武器よさらば』(A Farewell to Arms)で知られるチャールズ・ヴィダー。同年のアカデミー賞でミュージカル音楽賞を受賞しています。

場末のナイトクラブでしがないコーラス・ガールをしているヘイワース演じるラスティと売れない舞台監督ダニー(ジーン・ケリー)、ジーニアス(フィル・シルヴァース)の3人は、夢だけは腹一杯食べながら、貧しいながらも楽しい青春時代を謳歌していました。ここで歌われている『Let’s Keep On Singing Make Way For Tomorrow!』(歌い続けていれば明日は必ずやって来る!) は、アイラ・ガーシュイン(作詞) & ジェローム・カーン(作曲)といった当時のブロードウェイきってのゴールデン・コンビの手による作品です。

 

改めて驚かされるのは、巨費を投じて制作されたこの”娯楽映画”が1944年、つまり太平洋戦争の真っ最中に作られていたということです。当然のことながら"鬼畜米英"が手掛けた映画は日本で公開されることはありませんでした(初公開は1977年。奇しくも高校生だった私は、同作の日本におけるロードショーに立ち会ったこととなります)。米国では1945年に公開された名作『ジーグフェルド・フォリーズ』(Ziegfeld Follies)も同じくですが、確かに豪華絢爛なハリウッド映画が戦時中に公開されていれば、日本国民は間違いなく戦意を喪失していたことでしょう。

ちなみにヘイワースはマリリン・モンローやジェーン・マンスフィールドらと並んでピンナップ・ガールとしても人気が高く、広島に原爆を投下したB-29爆撃機『エノラ・ゲイ』の操縦席にも彼女のブロマイド写真が貼られていた、という説がまことしやかに流されたほどです。

 

 

ラスティが有名雑誌の表紙を飾るカバー・ガールに大抜擢されたことで3人の間にも不協和音が生まれます。やがてブロードウェイで大成功を収めるラスティ。それでも心が晴れることは一度もありませんでした。ダニーが、ジーニアスがいないから…。終盤、ブロードウェイの大プロデューサーのプロポーズを渋々受け入れたラスティでしたが結婚式当日、ウェディングドレスのままでダニーの元へ走ります。そう、このシークエンスはダスティン・ホフマン主演の大ヒット作『卒業』(The Graduate)のエンディングの元ネタともなりました(1967年)。

 

劇中、今では決して許されない北米先住民族の踊りを揶揄したシーンも登場しますが当時、最先端であった三色式のテクニカラーにヘイワースのトレードマークであったレッドヘアが映え、観る者を魅了します。振り付けの見事さもさることながら、3人の息の合ったダンス・コンビネーションは圧巻。ミュージカルの楽しさを伝えてくれます♪ この作品を皮切りに、ハリウッドのミュージカル映画は戦後、第二次黄金期を迎えることとなります。