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未だ鎖国状態にあったベトナム社会主義共和国に、私が初めて足を踏み入れたのは1987年(昭和62年) のこと。以降、幾度となく取材に訪れる中で、是非ともお会いしたかった人物のひとりが”ハノイ・ハンナ” (Hanoi Hannah) ことチン・ティ・ゴさんでした (Trịnh Thị Ngọ )。しかしながら2016年 (平成28年) 9月30日、彼女は85歳でその波瀾万丈の生涯を終えたため、残念ながら私の願いが叶うことはありませんでした。

 

   チンさんは1931年(昭和6年) に首都ハノイで生まれています。裕福な家庭に育った彼女は、大好きだった米映画『風と共に去りぬ』を字幕なしで観たいと父親に訴え、英国人女性の家庭教師をつけてもらうと瞬く間に実力をつけ、1955年(昭和30年) には旧・ベトナム民主共和国 (北ベトナム) の国営対外向けラジオ局『ボイス・オブ・ベトナム』 (V.O.V.) に採用されるほどになります。

 

 1965年(昭和40年) 3月8日、米海兵隊がベトナム中部の中核都市ダナン (Đà Nng) に上陸し、大規模な軍事複合施設を建設。米国による軍事介入が本格化したことを受け、北ベトナムは V.O.V. を通じて駐留米軍に対する宣伝放送を開始し、チンさんに白羽の矢を立てました (「ハノイ・ハンナ」という愛称は米軍がつけたもので、本人は本名が意味する「ザ・フレグランス・オブ・オータム」⦅The Fragrance of Autumn: 秋の香⦆ を好んで用いていました)。

放送原稿はベトナム人民軍 (旧・北ベトナム軍) が作製し、オーストラリア人ジャーナリスト ウィルフレッド・バーチェットがスピーチを指導したとも云われています。バーチェットは、被爆後間もない1945年(昭和20年) 9月3日に、英『デイリー・エクスブレス』紙の特派員として広島を訪れ、その惨状を世界に向けていち早く打電したジャーナリストとして知られています (第一報はUP通信のレスリー・ナカシマによる8月27日付の記事)。

 

 

1日3回、30分のラジオ番組はいつも、「お元気ですかG.I.ジョー? 皆さんは、皆さんが戦っている戦争について、そしてどうして皆さんがここにいるのか、正確な情報は知らされていないようです。真実を知らされないまま戦死したり、負傷して障害を抱えて生きることほどおかしなことはありません」といった呼びかけで始まりました。

米軍が箝口令を敷いてしたソンミ村虐殺事件 (68年3月16日) の詳細をいち早く報じ、毎日、米軍の戦死者の氏名を淡々と読み上げるなど、絵に描いたようなプロパガンダ放送でしたが、この番組の巧みなところは、チンさんが自らの考えを述べるわけではなく、米国の反戦活動家たちから極秘裏に入手した例えば女優ジェーン・フォンダのインタビューや反戦を歌ったザ・アニマルズの” We Gotta Get Out of This Place”などをヘビーローテーションで流し続けたことでした。検閲の厳しかったベトナム米軍放送 (Armed Forces Viet-nam Networks: AFVN) に飽き飽きしていた米兵たちは「ハノイ・ハンナ」に飛びつきます。

ちなみに、同番組に対抗して65年から始まったのがAFVNの『Dawn Buster』。毎朝6時に米空軍のエイドリアン・クロンナウア軍曹が「グッド・モーニング、ベトナム!」と叫びながらジョークを連発し、喝采を浴びました (このエピソードは、87年にロビン・ウィルアムズ主演で映画化されています)。

 

こうしたプロパガンダ放送で思い出されるのが、太平洋戦争中の43年(昭和18年) 3月から終戦の詔勅が流される前日までラジオ・トウキョウ (現・NHKワールド) で放送されていた『ゼロ・アワー』です。米軍捕虜が前線の連合国軍兵士に語りかけ、軽快なジャズやポップスが流されたこの番組には、英語を”母語”とする数名の女性アナウンサーたちが在籍していましたが、そのひとりが米カリフォルニア州ロサンゼルス生まれの日系二世 アイバ・戸栗・ダキノでした。彼女は「ハノイ・ハンナ」と同じく「東京ローズ」(Tokyo Rose) のニックネームで親しまれ、連合国軍兵士たちの間で絶大な人気を博します。

戦争終結後、”母国”である米国に強制送還されたアイバ・戸栗・ダキノは国家反逆罪で起訴され49年(昭和24年) 9月29日、禁錮10年罰金1万ドルならびに市民権剥奪といった重罪に課せられました (77年1月19日に、ジェラルド・フォード米大統領による特赦により米国籍を回復)。

一方、チン・ティ・ゴさんは戦後、”戦勝国”となった統一後のベトナム社会主義共和国から栄えある国家栄誉賞を受賞しています (76年から87年まではサイゴンのテレビ局でキャスターとして活躍)。彼女は、一貫して共産党員ではなかったと証言していますが、「私は、戦争そのものを憎んでいました。米兵にはベトナム人民ではなく戦争に対して反旗を翻して欲しかった」と、「ハノイ・ハンナ」に志願した理由を後年、米ケーブルチャンネルC-SPANが行った独占インタビューの中で語っています (92年)。敗戦国と戦勝国の光と影。ふたりの女性の半生もまた、戦争によって翻弄され、蹂躙されたのでした。

 

 

1990年代後半、サイゴン(現・ホーチミン市)を訪れた私は、四方手を尽くして漸く、エンジニアの夫と共に同市へ移住していたチンさんとコンタクトを取ることに成功し、現地の知人を通じて取材を申し込みましたが、回答は「マスメディアの取材を受けるつもりは一切ありません」でした。ベトナム戦争の知られざる”功労者”であった彼女は戦後も、頑なに”耳の恋人”であり続けたのかも知れません。G.I.ジョーが去った祖国にはもう、「ハノイ・ハンナ」はいらないと。

 

こちらがベトナム戦争中、米兵に対して母のように、恋人のように語りかけた”ハノイ・ハンナ”ことチン・ティ・ゴさんの肉声です。