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「権力」は、一酸化炭素のようなもの。無色、無臭、無味である「CO」そのものに罪はありません。ところが赤血球中のヘモグロビン (Hb) と結合することにより、血液中の酸素運搬能力を低下させ、遂には生命をも脅かします。

「権力」も同じくで、じわりじわりと社会に浸透し、Hb ならぬ人々の「欲望」と相まみえることによって、「自由」や「権利」を蝕むモンスターへと変貌を遂げて行きます。「権力」には双六で云うところの”あがり”がないため、他者によって破壊・強奪される、または自己崩壊を来すまで際限なく拡大し続けます。

 

仏哲学者シャルル・ド・モンテスキューは「正義の名の元に、法を楯に遂行される暴挙ほど酷いものはない」 (There is no greater tyranny than that which is perpetrated under the shield of the law and in the name of justice.と説きましたが、この国の不幸は、為政者自身が「権力」の”制御不能な凶暴性”をつぶさには認識していない、自らが有する「権力」の怖ろしさに無頓着な点にあります。

かつて竹下登内閣総理大臣は、政治案件に一内閣が「道筋をつけたり、解決・達成出来るのはせいぜい一仕事である」と述べ、拙速な政策決定を戒めました。彼自身、戦地には赴かなかったものの大日本帝国陸軍飛行第244戦隊に所属し、何人もの同期が帰らぬ人となった経験を持つだけに、「権力」というものが、為政者の思惑を超えて”暴走”する様を経験値として知っていたとも云えるでしょう。彼にしてみれば、憲法改正や物価高騰対策、防衛費増額、原発再稼働といった一国の将来に関わる重要案件を立て続けに”閣議決定”によって押し進める「日本で一番権限の大きな人」になりたかったと云い放った岸田文雄総理大臣は、噴飯物以外の何ものでもないでしょう。

 

 人々は、彼らが持つ本当の力を知らない。

 

戦後、この国の為政者たちは、民主主義とは相容れない (とされる) ”帝王学”を次世代に授けることを怠った、意識的に避けて来たように思われます。”帝王学”と云えば、国民を抑圧する専制主義と捉えられ勝ちですが、『書経』にも「人を玩べば徳を喪ひ、物を玩べば志を喪ふ」 (玩人喪德 玩物喪志) とあるように、権力を手にした者が担うべき”責務”(noblesse oblige) と備えるべき”人徳”の教えでもあります。

自由民主党の結党以来、68年の歳月を経て、「ジバン、カンバン、カバン」はそっくりそのまま引き継いだものの、先代から”徳”を叩き込まれることがなかった二代目、そして「売り家と唐様で書く三代目」を地で行く三代目の国会議員たちが政権中枢を担う時代となりました (過去20年間に内閣総理大臣の座に就いた9人の内、6人が世襲議員)。四代目ともなれば、「売り家」の意味さえ理解出来ない有様です。彼らは初代の輝かしい”功績”を知識としてのみ知るだけで、その裏で流された夥しい数の汗と涙は一切教えられずに育ちました。まるで肥大化した「権力」を既得権益の如く易々と手に入れ、無自覚に、また無作法に”浪費”し続けているかのように映ります。

 

歴史を繙けば、「権力」というものは、決して未来永劫享受出来るものではないことがわかります。フランス革命やロシア革命を引き合いに出すまでもなく、為政者が羊群と軽んじていた国民がある日突然、思いも寄らぬきっかけから狂犬の群れへと姿を変える、といった例は枚挙に暇がありません。モンテスキューは「偉大な指導者になるためには、人民の上に立つのではなく、彼らと共に歩まなければならない」 (To become truly great, one has to stand with people, not above them.) とも諭しています。

政治は、弱者の為に有る。政治家は、弱者に寄り添ってこそ存在価値が生まれます。強者は、放っておいても生きる術を見つけますが、弱者はそうはいきません。強者に媚びへつらって私欲を肥やすなど以ての外。弱者の声に耳を傾け、彼らを生んだ社会的欠陥を突き止め、改善を図る。それこそが民主主義国家における公僕 国会議員の使命、国益に資する行動であり、人類が何千年もの歳月を費やして、血で血を洗いながら学び取った教訓です。

 

「権力」という刃は、油断すれば自らの首を掻っ切る凶器ともなる。”謙虚さ”が最大の武器であるといった道理も知らずに育った世襲議員たちは、自らのリスク・マネージメントさえ覚束ない。金切り声を挙げるアナーキストたちは寧ろ御しやすいでしょうが、静かなる大衆 (Silent Majority) を舐めてかかると痛い目に会います。一度、彼らが爆ぜれば到底、手がつけられなくなる。その時になって初めて、自らの無策無能を嘆き悲しむのは勝手ですが、恨むのであれば国民ではなく、「獅子の子落とし」を躊躇った先代を呪って頂きたい。悪因悪果も世の常と、歴史は丁寧に教えてくれています。

 

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