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昨日、投開票された広島市長選挙では自民、公明両党の県組織のほか、連合広島の推薦も受けた現職の松井一実候補が予想に違わず圧勝 (得票率 80.0 %)312年続いた松井市政に異を唱える市民も対抗馬を擁立するまでには至らず、選挙戦はまったくの無風状態となりました。これからの4年間、2027年まで広島市は、従来通り中央政府には楯突かず、諍いを避けて穏便に済ませる旧態依然とした “保守王国” の伝統を引き継ぐこととなります。

 

広島市は今、戦後最大の転換期を迎えています。「被爆者なき時代」を目前に控え、望むと望まざるとに関わらずこの街を形作って来たアイデンティティの刷新を余儀なくされています。松井市長が唱える通り、「50年、100年先を見据えた広島の発展」を市民が真剣に考え、「世界に誇れる『まち』づくり」を市が積極的に押し進めることが喫緊の課題であることは確かです。

しかしながら、同市の再開発は、原爆という人類史上最悪の非人道兵器により多くの犠牲を払った負の遺産を、まるでなかったかのように覆い隠してしまったのでは本末転倒となります。寧ろ、苛酷極まりない被爆体験によって産み落とされた「国際平和文化都市」なる崇高なスローガンを今まで以上に高く掲げ、これに恥じないどころか正の遺産へと昇華する、生まれ変わらせる決意と気概が求められています。

 

このブログでこれまで何度も指摘して来たように、広島市にしかない、広島市が世界に誇れる唯一のコンテンツは「平和」。これ以外にありません。なぜ広島市には年間 1847,000人もの外国人観光客がやって来るのでしょうか? (新型コロナウイルス感染拡大前の2019年度実績)。ディズニーランドのような大規模なアミューズメントパークがありますかありません。京都や奈良のような古刹がありますかありません。あるのは広島平和記念資料館と原爆ドームだけです。

彼らは自らの目で被爆の実相を知り、自らの耳で被爆体験を聞きに遠方からわざわざこの地を目指してやって来るのです。この点を冷静かつ客観的に押さえておかなければ、観光産業のみならず都市の在り方についても致命的な勘違いを引き起こすでしょう。

 

一方で、半世紀以上にもわたり延々と繰り返して来た「平和」の概念は、すでに錆び付き、老朽化し最早、人々の心には届かなくなりつつあります。加えて高齢化した被爆者は急速に減りつつある。今こそ広島市民は、「平和」の再定義を行わなければなりません。被爆地・広島にとっての「平和」を自ら見直し、発信すべき刻が迫っています。混沌の最中にある世界は、広島の声を待ち望んでいます。

ところが、過去8年間余り、私はつぶさに今の広島を見聞きし、多くの方々と語り合って来ましたが、率直に云って何ら斬新な発想は聞かれず、自ら行動を起こす市民にも出会うことはありませんでした。自由民主党の前身となった民主自由党が戦後復興の礎を築いたように、広島特有の政治風土を鑑み、私は保守系議員らにも一縷の望みを託していましたが、彼らからもアイデンティティの喪失といった緊迫感は微塵も感じられず唯々、ぼんやりと無為に時を過ごして来たように映ります。

 

 

広島に関わった当初、私は、「広島」と向き合うにはすでに手遅れなのではないかといった相当な危機感を抱いていました。事実、拙著『平和の栖〜広島から続く道の先に』の「あとがき」にはこのように綴っています。

 

広島という名のキャンバスに対峙し、絵筆ならぬペンを四年余りにわたり握り続けた。パステルカラーから原色へ。彩りが増してゆくに従い、自分とは縁もゆかりもないと思われていた風景が、やがて骨格を持ち、肉を付け、音声と臭気を纏い始め、まるで昨日見て来たばかりの情景の如く立ち昇って行った。

 本作の執筆を通じて、”あの戦争”、そして終戦直後のこの国を、ノンフィクションとして描くことは最早、物理的に不可能となりつつあることを痛感させられた。おそらく数年後には、広島の経験もまた”歴史小説”として描かざるを得なくなるだろう。拙稿が、果たしてノンフィクションとしての”最終列車”に飛び乗ることが出来たか否か。審判は、賢明なる読者に委ねたいと思う。

 

  これが3年前。本来であれば現時点においては壮大なヴィジョンに沿って様々な施策が講じられ、「被爆80年」に向けて新たな広島の総仕上げの段階に入っていて然るべきタイミングです。

 

1946 (昭和21) 528日、広島市の復興計画を策定する広島市復興審議会の第12回会合において、東京都の都市計画課長であり、都市計画の第一人者であった石川滎耀は、

「廣島の町はアンコウの様にノッペラボウでハッキリしない」と切り出し、イタリアのヴェネツィアを例に挙げて、「廣島で日本に一つの水の都を作りたい」と力説しています。

いみじくもアウトサイダーに歴史の浅さ、文化の希薄さを指摘され、心に火を付けられた広島市会議員、市職員、そして市民らは、「わしらの広島をノッペラボウになんぞしてなるものか。絶対に、絶対に広島を甦らせてみせる!」と闘志を滾らせ、原爆によって尊い命を亡くした方々に顔向けが出来るような「国際平和文化都市」を建設すべく、命を張って邁進しました。

 

あれから77年。JR広島駅に降り立っても、どこの都市なのか俄にはわかりません (中でも JR熊本駅前とは瓜二つです)。本通商店街を歩いてみても、原爆ドームが姿を現すまでは、どこにでもある無個性な街並みが続いています。果たして石川滎耀の指摘が正しかったのかどうか。その答えは好むと好まざるとに関わらず、数年後には明らかとなります。時計の針は止められない。残念ながら広島市はもう、後戻りが出来ないところにまで来てしまったようです。

 

 

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