20220915-1.jpg
 

 

先週末、東京・新宿「紀伊國屋サザンシアターTAKASHIMAYA」において、秋田雨雀・土方与志記念 青年劇場の『豚と真珠湾 ー 幻の八重山共和国』 (第128回公演) を鑑賞させて頂きました (今月18日まで)。

2007年 (平成19年)、劇団俳優座に書き下ろされ、同じこの劇場で初演された同作は、私が最も敬愛する劇作家 斎藤憐が描いた”琉球孤のコモンウェルス (Commonwealth)”とも云える秀作です。

 

1945年(昭和20年)の敗戦直後から朝鮮戦争の勃発に至るまで、時代の荒波に翻弄され続けた沖縄県・八重山諸島の石垣島が、この作品の舞台となっています。沖縄本島とは異なり地上戦は免れたものの (爆弾や機銃などによる直接的な戦争による死者は187人)、帝国海軍の石垣北飛行場(平喜名)や石垣南飛行場(平得)に加えて帝国陸軍航空隊飛行場(白保)もあったことから同島は、44年(昭和19年)10月12日以降、幾度となく米英軍による空襲と艦砲射撃の標的となりました。そのため村民は山間部への強制疎開を余儀なくされ、八重山全体で3,647人、何と 5人に1人がマラリアで亡くなるといった悲劇に見舞われます (戦争マラリア)。

 

約8,000人の帝国陸海軍将兵が「豚」を食い尽くしたことから敗戦後、深刻な食糧難に直面したこの島の料理屋『サカナヤー』に集う人々が、八重山特有の時空間を織り成します。戦災孤児の世話をしながら『サカナヤー』を切り盛りする南風原ナベや疲弊した本土相手の密貿易でしたたかに儲ける喜舎場アサコ、台湾人軍属の林国明もいれば、ハワイの沖縄移民二世であるダン・南風原、教員組合運動の生みの親であった比嘉長輝など、キャラの強い登場人物が次から次へと立ち現れます。

舞台上では、八重山ことば(ヤイマムニ)や本土で話される日本語(ヤマトグチ)が機銃掃射の如く絶え間なく行き交い、様々な知られざる史実も飛び交う。これら位相の異なる「ことば」が紡ぎ出す音質と抑揚によって、シンプルな舞台装置であるにも関わらず、独特のスピード感を生み出すことに成功しています。児童劇から国際的コラボレーションに至る多彩な舞台芸術を手掛け、昨年までアシテジ国際児童青少年舞台芸術協会の世界理事も務めていたという演出家 大谷賢治郎氏の「ことば」に対する感受性の高さによって生み出されたまさに異空間と云えるでしょう。

 

 斎藤憐の世界観を見事に表現された演出家の大谷賢治郎氏。

 

「八重山共和国」とは、45年12月15日に「共和国」(民主的自治機関) 構想を志向して結成された八重山自治会の別称で(会長 宮良長詳)、米軍が八重山に進駐し、軍政を施行する同月23日までの僅か8日間、八重山の人々が「夢を見た」 奇跡の日々を象徴しています。琉球王国に搾取され、「琉球処分」によって日本国に蹂躙され、米国の軍政下で自由を奪われた「ヤイマンチュ」の熱き想いと慟哭が込められた尊い名称です。

比嘉長輝のモデルとなった宮良長義らが説いた「八重山共和国」。宮良は、33年に治安維持法違反で起訴されますが、後に青年学校校長に復職。戦時中は「戦争が終わるまで日本国の神州不滅論をとうとうと説き、励ましていた」ものの、小作料の引き下げを求める水田団地組合や労働条件の改善を図る八重山荷馬車組合を組織し、先進的な指導者として一般大衆からは尊敬を集める存在でした。「八重山共和国」は実に、日本史においても極めて珍しい”空白地帯”における幻の独立国であったわけです。

 

この史実に則した時代設定・展開は、奇しくも拙著『平和の栖〜広島から続く道の先に』で描いた「被爆地・広島」の45年(昭和20年)〜49年(昭和24年)とオーバーラップしています。被爆からの数年間、広島の地に渦巻いた圧倒的な虚無感と絶望、剥き出しの欲望、そしてささやかな希望の灯は、遠く離れた石垣島でも生まれては消えていました。

 

私が、斎藤憐に魅せられたのは、79年(昭和54年)に初演された戯曲『上海バンスキング』でした(第24回 岸田國士戯曲賞受賞)。昭和初期、中華民国期の上海を舞台に繰り広げられる退廃と熱狂、ジャズと阿片。未だ本場ブロードウェイは未経験だった私には、鮮烈な印象を残した作品でした。

加えて83年(昭和58年)に刊行された著書『昭和のバンスキングたち ― ジャズ・港・放蕩』は当時、米カリフォルニア州の日系人社会における戦前・戦中の大衆文化を取材していた私には、バイブルのような存在でした。

徹底的に取材を重ね、綿密に脚本を練り上げるその姿勢に感化されたと同時に、予定調和を良しとしない斎藤憐の個性的な視点に共通点を見出していました。昭和20年の南西諸島と云えば、十中八九の作家、ジャーナリストは沖縄本島を題材に選びます。ところが斎藤憐は先島諸島の石垣島に光を当てた。それは、奇を衒った安手のテクニックなどではなく、”離島”と称される周辺からこそ琉球孤の本質が見えるといった彼ならではの信念があったからに違いありません。

”琉球孤のコモンウェルス (Commonwealth)”。彼はこの作品について、「生まれた時代から逃れられない人々の群像をリアルに書くことで、時代を書きたい。人は誰もが、ものすごい矛盾を抱えている。小手先で作れる、符号のような人間なんていません。わかりやすい因果律からどれだけ離れられるかをいつも考えています」と語っています(『朝日新聞』2007年9月29日付)。

私も、昭和20年8月6日の「広島」ではなく、その日から始まる4年間を描きました。なぜならば、その焦土、瓦礫から顔を出した夾竹桃の立ち姿にこそ、広島もんの本質が隠されていると踏んだからに他なりません。

 

すでに絶版となっている『昭和のバンスキングたち ― ジャズ・港・放蕩』(ミュージックマガジン刊)。