文学館といふものは、そもそも趣味性が極めて高い素材を扱うだけに来館者が限られ、よって収益は見込めず、展示内容から云ってもインスタレーションといったやうな今で云ふところの”映える”展示も容易ではないことから畢竟、訪れるひとは減る一方といった根源的な問題を抱えています。
そんな中、かごしま近代文学館 (鹿児島市・城山町) では『向田邦子の家時間〜着ること食べること住まうこと』(来年1月23日まで) と白洲次郎生誕120周年特別展『白洲次郎・白州正子 武相荘折々のくらし』(本日まで) といった大変興味深く、尚且つ意欲的な企画展が同時開催されていたため、迷うことなく足を運んでみました。
3年生から6年生の初めまで鹿児島市立山下小学校に通い、この地を「故郷もどき」と公言されていた向田邦子さんは、開高健さんと並んで、私が若き日に最も影響を受けた作家さんでした。基本的に、作品と作家とはまったくの別物と考えているため、作家の私生活に興味はありません。
しかしながら今回の企画展においては、向田さんが41歳の時に購入し、仕事場兼住居とされていた東京・南青山のマンションでの日々において、こだわりを持っていたという様々な衣・食・住に関わるアイテムが集められていただけに、向田邦子という希有な女性の、しかしながら等身大のライフスタイルの点描として楽しむことが出来ました。
一方、吉田茂総理大臣の片腕として戦後、終戦連絡中央事務局(CLO)の参与そして次長として連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ/SCAP) と対等に渡り合い、我が国の戦後復興に寄与した白洲次郎については、拙著『平和の栖〜広島から続く道の先に』の取材でリサーチをしたこともあり、その生き様には高い関心を抱いていました。東京・町田にある旧宅『武相荘』における生活用品等を展示した本展からは、英国流のプリンシプル(Principle) を生活信条に据えていた彼の無駄のない美意識の片鱗を窺い知ることが出来ました。
彼は、「プリンシプルとは何と訳したらよいか知らない。原則とでもいうのか。日本も、ますます国際社会の一員となり、我々もますます外国人との接触が多くなる。西洋人とつき合うには、すべての言動にプリンシプルがはっきりしていることは絶対に必要である。日本も明治維新前までの武士階級等は、総ての言動は本能的にプリンシプルによらなければならないという教育を徹底的にたたき込まれたものらしい」と、後に語っていますが、こうしたプリンシプルの有り様を改めて考えるきっかけを与えてくれたのが、日本の近代を押し開いた鹿児島の地であったことは私にとって、何らかの因縁だったようにも思われます。
面白いことに両者に共通する思想は「実用性」。それは、ありきたりな「合理主義」などではなく、銘にも金銭的価値にも囚われず、唯々美しい、役立つツールをこよなく愛す、といった紳士淑女の「プリンシプル」でした。
昨今、取り沙汰される”断捨離”には、まったく思想というものがない。「捨てる」といった行為そのものに意義を持たせることで、失うものはあまりにも多い。モノを「ツール」と見做すか「カルチャー」として捉えるか。モノがない時代、モノが目の前で次々と破壊される時代を経た者は、その喪失感の先にモノの真の価値を見出す。美学といふものが疎んじられる現代、彼らのシンプルかつ純粋なマテリアルの愛で方から私たちが学べることは数多くあります。
また、鹿児島にゆかりのある海音寺潮五郎や林芙美子、島尾敏雄、椋鳩十といった文豪の直筆原稿を展示した常設スペースも、作家の端くれである私にとっては、大変示唆に富んだ展示となっていました。