ジョー・バイデン大統領が米大統領選挙戦からの撤退を表明。現職大統領の出馬断念の引き金となったのは先月27日に開かれたテレビ討論会、そして先週19日に米ウィスコンシン州ミルウォーキーで開催された共和党全国大会におけるドナルド・トランプ前大統領の圧倒的な指名候補受諾演説でした。潮目を変えたトランプ前大統領のスピーチとはどのようなものであったのか。ここで改めて考察してみましょう。
ひと言で云えば、この受諾演説は多くの米国人、保守中道とされるサイレント・マジョリティの琴線に触れる非常に良く練られた一種、”伝道”をも思わせる秀逸なプレゼンテーションとなっていました。
銃撃後初めて、彼が公の場でどのような発言をするのか。全世界が注視する中、スピーチは兇弾に斃れた元・ボランティア消防士コーリー・コンパートア氏の死を悼み、身を挺して妻と2人の娘を守ったその人格を讃える件から始まりました。
バッファロー・タウンシップの消防団から借り受けたコンパートア氏が着用していた消防服の肩にトランプ前大統領が静かに手を当てる姿は、登壇前にスクリーンいっぱいに映し出されていた拳を振り上げる写真(下記参照) と見事な対比を見せ、瞬く間に聴衆の心を鷲摑みにして見せました。黙祷。そして、彼は呟きます。「私には、神の御加護があった」 (I had the God on my side)。
米国は、政教分離を国是としています。合衆国憲法修正第1条には「連邦議会は、国教を樹立し、あるいは信教上の自由な行為を禁止する法律を制定してはならない」 (Congress shall make no law respecting an establishment of religion, or prohibiting the free exercise thereof) と明記されています。
しかしながらこの条項は、”国教”によって政治、社会、経済がコントロールされていた旧宗主国の封建主義を拒否したものであり、信教の自由は保障されています。また同条は連邦政府が対象であり、各州には適用されません (1868年に批准された修正第14条は、州が「正当な法の手続きによらず個人の生命、自由、あるいは財産を奪う」ことを禁じていますが、これは権利章典で保障されている信教の自由も含めた権利を、州が保護することを義務付けるものです)。
米国の政治と宗教は、切っても切れない関係にあります。拙著『アメリカの世紀〜繁栄と衰退の震源地をゆく』でも綴りましたが、キリスト教を理解していなければ、この国の内政は元より外交も読み解くことは出来ません。
米『タイム』誌最新号の表紙を飾った暗殺未遂事件直後を捉えた写真。AP通信のカメラマンで2021年にピューリッツァー賞を受賞したエバン・ヴッチ氏が撮影したこの奇蹟の一枚は、仏画家ウジェーヌ・ドラクロワが描いた『民衆を導く自由の女神』 (La Liberté guidant le peuple) と構図が完全に一致しています。
今回の指名候補受諾演説で私が最も驚かされたのは、トランプ前大統領が天才的伝道師ビリー・グラハム牧師に言及したことでした。彼は父に連れられてヤンキース・スタジアムで開かれたグラハム牧師のメガ・チャーチ (一度の礼拝に2000人以上を集める巨大な教会) に参加したことをこの演説で詳らかにしています。
南部バプティスト教会の福音伝道師であったグラハム牧師は、保守的信仰復興運動の指導者として1970年代に頭角を現し、現代社会に適応した新福音主義 (ネオ・エヴァンジェリカル) を提唱し、世界185ヶ国で2億1500万人に伝道。2002年の段階で世界に20億人もの信者を擁していました。
ベトナム戦争反対運動によって生じた人間中心主義に嫌悪感を抱き、聖書が説く教義に忠実ないわゆるサイレント・マジョリティーの心を捉えた彼は、80年代に入ると政治との関わりを強め、党派を問わず歴代大統領もグラハム牧師との親交を深めて行きます。リチャード・ニクソン大統領の就任式で祈祷を捧げ、2018年 (平成30年) 2月21日に亡くなった際には、ノースカロライナ州で営まれた葬儀までの間、遺体は首都ワシントン D.C. の連邦議会議事堂に安置されていたとも謂われています。
キリスト教原理主義者の代表格として名乗りを上げた彼を支えたのは、バイブル・ベルトの住民たちでした。バイブル・ベルトとは、米中西部から南東部にかけて信仰心の篤い人々が居住するエリアを指します。具体的には南北はカンザス州からフロリダ州北部にかけて、東西はヴァージニア州からテキサス州に至るまさに米国の心臓部。これは、トランプ前大統領の支持基盤であるいわゆるラスト・ベルト (重工業や製造業によって経済が成り立っている地域) ともオーバーラップします。
なるほど、トランプ前大統領の畳みかけるような辯舌は、希代の伝道師 (エヴァンジェリスト) グラハム牧師の説教に倣っていたのか。米国民の約4分の1を占めるとされる福音派の人々は、トランプ前大統領にグラハム牧師の”再来” (Reincarnation) を重ね合わせているのか。思わず膝を叩いたのは、米国における”テレビ伝道”の威力を見聞して来た私だけではなかったはずです。
私は一ジャーナリストとして中立かつ客観的な立場で両党の動向を追っていますが、彼の選挙スローガン「米国を再び偉大にしよう」 (Make American Great Again) がなぜ今、迷える米国人の心に響くのか。改めて考えてみる必要はあるでしょう。
孤立主義 (Isolationism) を標榜するトランプ前大統領は、「私は、闘うことを決して止めない。あなたのために、あなたの家族のために。そしてこの偉大な国のために」 (I’ll never stop fighting for you, your family, our magnificent country) と声高に叫びます。神の御加護により、アメリカ合衆国は必ずまたひとつになれる、と。