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この剪定は、果たして「樹木」のためか「人間」のためなのか?

 

おや? 確か2007年(平成19年) に「21世紀環境立国戦略」を閣議決定していませんでしたっけ? 「自然共生の智慧や伝統」を謳いながらも、東京都は樹齢100年以上の樹木の伐採を伴う明治神宮外苑の再開発を押し進め、大阪市は2024年度までに1万本の街路樹を伐採するとか。やれやれ。これだから、いつまで経っても経済大国気取りのバブル世代は嫌われる。

そもそも「伐採」か「保護」か、といった二元論ほどさもしいものはありません。現代の日本人は、何かと云えば「白」か「黒」かを決めたがる。思索の”放蕩”を閉め出すことで、自ら教条主義の袋小路に陥り、第3、第4の選択肢を模索する意欲を殺いでいることにさえ気がつかない。

 

都心を歩いていると、根元までコンクリートとアスファルトで固められた街路樹に屡々出会います。「よくぞ育ってくれた」と愛おしく思う反面、「こんな環境で生き長らえることが果たして彼らにとって幸福なのだろうか」と考えさせられることも少なくありません。

「環境問題」は樹木のため、生物のため、況してや地球のためでもありません。すべては人間のため、人類という種が生き延びるための方便に過ぎません。街路樹にせよ、都会の植樹の主目的は「景観」です。つまりは人間のため。今の時代、都市開発ともなれば、必ず「自然との調和」などといった類の美辞麗句の下、申し訳程度の草木が植えられ、”美観”の向上とやらに利用されます。一方で、通行の邪魔、昆虫や鳥類が巣を作ったともなれば、とっとと切り倒してしまう。だって、ここ (地球) は人間様のものだから。

 

こうした思考は、人間中心的世界観 (ドイツ語ではAnthropozentrische Weltanschauung) と称されますが、そんな都会人のご都合主義などどこ吹く風。伐採せざるを得なかった樹木を有効活用している例が米アイダホ州の片田舎にありました。個人宅の敷地内に植えられていた樹齢110年のハコヤナギを伐るにあたり、何と幹をくり抜き扉を付け、ミニ図書館を作ってしまいました。その名も”リトル・ツリー・ライブラリー”。蔵書は児童書を中心に僅か50冊ほどですが、「本を手に取って・本を分け合って」(Take a Book・Share a Book) と書かれたプレートが掲げられています。太い街路樹を、どうしても伐採しなければならないのであれば、このように幾つもの小さな図書館を街角に設置すれば、どれほど楽しいことでしょう♪ 細くたって、LED ランタンを埋め込めば、街路を仄かに照らしてくれます。

 

”リトル・ツリー・ライブラリー”は子どもたちにとって、文字通りの夢の国へのエントランス♪

 

 

さらに、地方自治体レベルで一歩も二歩も先を行っているのがデンマーク王国の首都コペンハーゲンです。同市は、都市全体を「誰でも利用可能な農園」にしよう、といったまさに”革命的”な法案を2019年(平成31年) に可決しました。公園や教会の中庭など公共の土地に植えられたブラックベリーやリンゴなど”公共の果樹”は、誰でも自由に採取して食べても構わない。まさに中世から連なる「自然共生」の思想を体現した都市法です。例え虫が出ようが、熟れた果実が頭に落ちようが、それは「生物の多様性を守るため。”人間”はある程度の快適さは犠牲にする必要がある」といった考えに基づいています (環境倫理学)。

デンマーク語で”自然食品”を意味する「Vild Mad」といったアプリを使えば、街のどこにどのような果実があり、野草が生えているかを調べることが出来るだけではなく、何とレシピまで教えてくれます。こうした「公有地で育った果物は市民が分け合う」といった施策は、単なる街のイメージアップに留まらず、地域コミュニティの構築にも役立ちます。

 

要は、発想です。二元論から、決して文化は生まれません。様々なアイデアを出し合い、工夫を凝らすことで凡百の「環境問題」とは異なる自然の活かし方も生まれて来る。仏哲学者ブレーズ・パスカル曰く、「人は考える葦である」(L'homme est un roseau pensant)。逆に云えば、凝り固まったお題目に偏執し思考停止状態に陥っている人間は、葦にも劣る存在ということです。

 

世界自然保護基金(WWF) のポスター。「伐採すれば、二度と復元はできません〜地球上のどこであろうと、熱帯雨林を伐採すれば、不毛の地だけが残ります」。

 

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