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先月29日、オンラインで開催された『アウシュヴィッツ生還者へディ・ボームさんの講演会』に参加させて頂き、大変貴重な体験談を伺う機会に恵まれました (主催: 日本ユダヤ教団、NPO法人ホロコースト教育資料センター 後援: イスラエル大使館、ドイツ連邦共和国大使館、カナダ大使館)。

 

ボームさんは1928年 (昭和3年)、ルーマニア西部トランシルヴァニア地方のオラデア(Oradea) で生を受けます。当時はハンガリー王国 (現・ハンガリー) の領土でありナジヴァーラド (Nagyvárad) と改名させられていたこの街にナチス・ドイツ軍が侵攻したのは1944年初頭 (昭和19年)。ユダヤ系の女学校に通い、政治の”せ”の字も知らずに青春を謳歌していた15歳のボームさんの、人生の歯車が狂い始めたのはその年の3月、校長先生が全校生徒を前に学校閉鎖を告げたその日からでした。

 

街に住むユダヤ人は黒々と「Jude」 (ユダヤ人を意味するドイツ語) と記された黄色い六芒星のバッジを上着に縫い付け着用することが義務付けられ、私有財産はすべて没収されて強制的にゲットーへと移住させられました。ボームさんは16歳の誕生日を迎えた翌月に、家族と共にアウシュヴィッツ =ビルケナウ強制収容所 (第2収容所) へと移送されます。

「極々普通の生活をしていたのに、ほんの数ヶ月の間に目まぐるしく環境が変わり、一体何が起こっているのか、まったくわからないまま貨車に乗せられていました」

 

ビルケナウのランプで待機するハンガリーから移送されて来たユダヤ人たち (1944 年ナチス親衛隊撮影)

 

色のない世界。音のない世界。虐待や虐殺のみならず、その殺伐とした環境によっても精神が徐々に壊されて行ったとボームさんは述懐します。

「一日一杯のスープ。肉も、芋も入っていない茶色く濁った反吐のような水に、石のように固い一切れの黒パンとマーガリン」。まさに”食”を用いた下劣極まりない虐待。あまりの不味さに多くの収容者は飲むことさえ出来なかったと云います。

「女学校時代の親友から、『私は、もう駄目。生きられないと思う…。でも、へディは大丈夫。もしもここから出られたら私の彼、覚えてる? 彼に、心から愛していると伝えて欲しい』と云われ、『頑張ろう。絶対にここから一緒に出よう』と励ましましたが、彼女は生きて収容所を出ることは叶いませんでした」

  ボームさんはアウシュヴィッツ =ビルケナウ強制収容所で3ヶ月を過ごし、120万人もの無実の人々が無残に殺された (ユネスコの世界遺産に登録された死亡者数) 「死の行進」を生き抜き、他の収容所へと移され、終戦を迎えます。

 

ふたりのいのちを分かったものは何だったのでしょうか。私は、広島のある被爆者との会話を思い出していました。

「同級生と水を飲みに外に出た途端にピカッと空が光って、ふたりとも爆風に吹き飛ばされて気を失うてしもうたんよ。目を覚ますと幸い、私は怪我ひとつしとらんかったけど隣に、ほんの数センチ横にいた同級生は、左半身が真っ黒焦げになっとった」

   広島・長崎とアウシュヴィッツ=ビルケナウは、第二次世界大戦によって引き起こされた人類史上最悪の”負の遺産”であると同時に、人類という生き物が宿す”本性”を白日の下に曝け出した”舞台”でもありました。

被爆者と生還者。彼らが実際に見たこの世の地獄を私たちは、胸を抉られるような痛みと哀しみを伴って聞き知るわけですが、決して彼らの苦痛と無念を分かち合うことは出来ません。

「自分を信じて、絶対に諦めてはいけない」

アウシュヴィッツ =ビルケナウ強制収容所からの生還者、そして被爆者なき時代を目前に控えて、私たちには何が出来るのか、為すべきなのか。鉛の如く硬く重い問いが今、私たちに投げかけられています。

 

 

【脚注】 1944年3月19日にソ連軍がルーマニアへ侵攻し、ドイツ軍の南東部戦線が崩壊の危機に見舞われたため、ドイツ軍は対ソ戦の橋頭堡としてハンガリー王国の占領に踏み切ります。それまで同国は、ユダヤ人の迫害には抵抗の姿勢を見せていましたが、占領下に首相となったデメ・ストイヤは一転して反ユダヤ政策を押し進めました。

  同年4月から小編成の列車によるアウシュヴィッツ=ビルケナウへの移送が始まり、6月7日までに28万9,367名、7月9日までには43万7,402名ものユダヤ人が毎日3〜5本の移送列車で収容所に送り込まれ、その大半はガス室で虐殺され、戦後、生還出来たのは僅か2万名に過ぎませんでした。