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「山下義信」の名を知る者は、今や広島でも数少なくなりました。拙著『平和の栖〜広島から続く道の先に』でも取り上げたこの傑人は、紛うことなく広島の戦後復興を牽引した誇り高き勇者のひとりです。先週訪れた広島平和記念資料館で、期せずして企画展『広島戦災児育成所 ―子どもたちと山下義信−』と遭遇。興味深く拝見し、改めて山下義信の人となりに触れる機会に恵まれました (911日まで)

 

1894 (明治27)、広島県・呉市の裕福な呉服屋に生まれた義信の人生は順風満帆と思われていましたが、世界恐慌の煽りを受けて家業が経営難に陥ったことから、広島仏教学院に学び、40代で僧籍を取得します。戦時中は布教活動を経て再び帝国陸軍に志願し、佐世保重砲兵第十五聯隊に入隊。

45 (昭和20) 9月半ばに復員した彼は、次男が被爆により行方不明となり、妻が重傷を負ったことを知ります。絶望の淵を彷徨った義信は、原爆投下の2日後に比治山国民学校 (現・広島市立比治山小学校に開設された迷子収容所を訪れ、年端もいかない子どもたちが直面している惨状を目の当たりにします。

そこで改めて仏教徒として「救民活動発願」に目覚め、南観音町にあった自宅を売却するなど私財を投じて広島戦災児育成所を設立し(同年12)、迷子収容所にいた約30名の子供たちのみならず、両親を失った学童疎開先の子どもたちをも引き取りました (昭和23年当時、在所児は84名で「収容原因」のトップが「原爆孤児」の67名、「浮浪児」は6名となっています)。義信曰く、「孤児達を親のある子と同じように育て上げる。(中略決して卑しくない者にしなくてはならない」

 

同所は、義信の申し出により53 (昭和28) 15日に広島市へ移管され (「広島市戦災児育成所」へ改称)、彼と妻の禎子は運営から退きますが、それで彼の戦争犠牲者救済の意欲が潰えたわけではありません。47 (昭和22には戦後初の参議院議員選挙に立候補し当選。以後、212年間にわたり被爆地・広島選出の国会議員として、後には厚生委員会の委員長として戦後復興の肝であった社会福祉政策の実現に尽力しました。特に児童福祉については当時の吉田茂首相に対して、

「ただ小さい施設、或いは不完全なる収容所などに止めて置くべきではないのでありまして、国の力で何とかこの悲惨なる子供達に光明を與えて頂き、暖かい援助の手を差延ばして頂きたい」と力強く進言しています (昭和24519日「第5 国会参議院厚生委員会」国会議事録より)

 

 

また、広島市市議会議長 任都栗司らと共に「原子爆弾被爆者の医療等に関する法律」 (法律第四十一号、通称「旧・原爆医療法」の制定 (昭和32にも精力的に取り組み、原爆症患者援護法案要綱においては次のように記しています。

「政治的にみてー原爆症は、国の責任において遂行した戦争による犠牲であり、これが治療も亦、国の責任で行われるべきである。他方、今日、国の責任において原子力科学及びその実用化の推進を取り上げているのであるからこれに随伴するであろう放射能障害の予防、治療、或は今後あるべき原水爆実験による被害の対策の樹立に対し、原爆症患者に対する治療から得られる知識は貴重な貢献をすることと思われる」 (昭和31816日「広島県原爆被害者団体協議会関連文書」より)

 

翻って、現在の広島はどうか。山下義信の如く命を張って故郷のため、国のために闘う真の国士は唯のひとりも見当たりません。不平不満を漏らし、批判、非難はするものの、誰ひとりとして自ら立ち上がろうとはしない。志ある者を寄って集って潰すかと思えば、やがて内紛を起こして自滅する。私が、広島の戦後は「断絶」と「停滞」の繰り返しと論じる所以です。

山下義信らが夢にまで見た広島のアイデンティティが今、根底から揺らいでいます。数年後、広島がのっぺら坊な街と化すことを侍して待つことなく、広島市民であるならば是非、義信の熱き想いに耳を傾けて頂きたい。あなたが、もしも広島のこころを持っているのであれば。

 

 

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