今月15日に開催された『第45回 サントリー地域文化賞受賞記念 国際シンポジウム 原爆文学の今を考える』 (主催 広島文学資料保全の会・広島花幻忌の会・四國五郎追悼の会) をオンラインで視聴しました。
黙祷の後、原民喜や栗原貞子、峠三吉らの詩の朗読に始まり、パネラーとして登壇されたノンフィクション作家の江刺昭子氏、梯久美子氏、ジャーナリストの堀川惠子氏、そして研究者のAnn Sherif氏が、原爆文学の過去と現在について縦横無尽に語り合う大変興味深い内容でした。私自身、「広島」と関わって来た物書きのひとりとして、共感出来る部分が多々あり、新たな発見もありました。
大田洋子の評伝『草饐』で知られる江刺昭子氏は、大田の名作『屍の街』が文壇で評価されなかった理由のひとつとして、ジェンダーの不平等を挙げておられました。特に、一貫して”怒りを吐き続けた”大田と、井伏鱒二の『黒い雨』に登場する矢須子との比較は秀逸で、文学界における根強い男尊女卑の系譜を改めて見詰め直す機会ともなりました (ここでは敢えて触れませんが、この広島における被爆後のジェンダー問題は、実のところ私も以前から気に掛かっていた点です)。
堀川惠子氏の「広島の失われた10年」は連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) が行ったプレスコードによるものだけではなかった、といった考察には大いに賛同するところです。広島では戦後、被爆者が声を挙げなかった、挙げられなかった理由を、安易にプレスコードに責任転嫁する傾向が見受けられます。
私も拙著『平和の栖〜広島から続く道の先に』の取材で、プレスコードについては数多くの文献資料にあたりました。GHQが1945年 (昭和20年) 9月19日に発令した10箇条から成るプレスコード (『日本に与うる新聞遵則』SCAPIN33及び同22日に発令された『日本放送遵則』SCAPIN43) を実際に運用し、検閲したのは参謀第二部 (G-2) の民間諜報局 (CIS) に属する民間検閲支隊 (CCD) で、47年 (昭和22年) 3月の段階で6,168名を擁する大規模な組織でした。しかしながらCCD職員の内、5,076名が日本人であったことから事実上、戦後日本の検閲は日本人自らの手によって行われていたことがわかります。
広島県でも、福岡市に置かれていたCCDの支部、第三地区民間検閲所 (第Ⅲ区a) によって46年 (昭和21年) 5月から49年 (昭和24年) 8月までの間に雑誌121タイトル、書籍は285冊が検閲対象となっています。但し、広島県全体の違反件数484件の内 (新聞を除く)、左翼的事案は70件に留まり、その多くが右翼、国粋主義関連の違反でした。
事実、CCDとしてはGHQや地方軍政部に対する批判や軍国主義の賛美、社会主義思想の浸透に神経を尖らせており、プレスコードの第二条「直接又ハ間接ニ公安ヲ害スルガ如キモノハ之ヲ掲載スベカラズ」に過剰反応し、自主規制に走った媒体が大半であったことは明らかです。
梯久美子氏は、広島生まれでも育ちでもない”よそ者”が広島を描くこと、当事者性の問題を提起されていました。これも「広島」をテーマに据えた作品を執筆して来た私自身、常に自問自答を繰り返し、葛藤し続けて来た命題であるだけに、共鳴する部分が少なからずありました。
しかしながら”よそ者”であろうが強欲な作家はその性として、知ってしまった以上、書かざるを得ない。詰まるところ、広島の人間が書かないのであれば私が書く、といった覚悟、開き直りにも似た心持ちです。梯氏が、「文学を経由すれば広島に近づける」と仰った点にも至極納得が行きましたが一方で、こうした表現者並びに出版社による「広島」のタブー視が、原爆文学の人口膾炙を妨げた要因であったことも確かでしょう。
広島出身ではない者が被爆を描いた場合、それは原爆文学と呼べるのだろうか。そもそも”あの日”、広島にいなかった広島出身の表現者の作品はどうなのか。それは、大江健三郎が『ヒロシマ・ノート』に記した「真に広島的な人間たる特質をそなえた人々」にも通じる問いかけとも云えるでしょう。
また、広島の人間は果たしてそれら”よそ者”が執筆した作品を受け入れられるのか。受容出来るだけの包容力を有しているのか、といった問題にもやがて「広島」は直面することとなるでしょう。
大田洋子が1948年 (昭和23年) に中央公論社から上梓した『屍の街』の初版本
こうした議論を踏まえた上で、原爆文学に未来はあるのか? といった今回のテーマに立ち戻れば、私の答えは明らかにイエスであり今後、その価値はさらに高まって行くものと信じて疑いません。
広島文学資料保全の会が広島市と共同で、国際教育科学文化機関 (ユネスコ) の事業のひとつである「世界の記憶」への「広島の被爆作家による原爆文学資料」の登録を目指した際、同会代表の土屋時子氏から依頼され、私も推薦人に名を連ねました。原爆文学は全人類にとって極めて貴重な芸術作品であり、広く認識・評価されるべきとの考えからです。
但し、国内審査委員会の推薦を得ることが最大のハードルであり、世界の人々にアピールするためには、少なくとも下記の条件が必要不可欠であろうと僭越ながら助言をさせて頂きました。
- 原爆文学の全体像が見渡せるように登録申請資料の絶対数を増やす (これは、奇しくも文部科学省国際統括官付企画係の不採用理由とも重なります。一方、現実問題としては、それぞれの著作権者にあたり許諾を得るには膨大かつ困難な作業を伴い、容易なことではありません)。
- すべての資料を英訳する (翻訳者ではなく、文学者による翻訳が望ましい)。
- これら英文稿を、世界中のノーベル文学賞受賞者に献本し (ノーベル平和賞ではなく)、飽くまでも文学作品として評価して頂き、推薦文をしたためて頂く。
- 欧州のマスメディアと連携し (この事案に関して云えば、国内メディアはまったくの無力です)、国際世論を喚起した上で登録申請に臨む。
いずれにせよ、遅かれ早かれ原爆文学が世界的評価を得ることは間違いありません。広島文学資料保全の会が37年間にもわたり真摯に収集・整理して来られたこれら貴重な一次資料が日の目を見て、やがて世界の文学界に衝撃を与えることとなるでしょう。その時、初めて”原爆を実感しないひと”との隔たりは、ほんの少しばかり埋まる。
しかしながら、半世紀前と何ら変わらぬ情緒的アプローチだけに頼っていたのでは、これら作品が文学の大海に埋没して行くのを食い止めることは難しいでしょう。そこには現実を見据えた”戦略”がどうしても必要となります。いみじくも大田洋子が「文学はやっぱり、リアリズムよね」と、呟いたように。
原民喜