京都府・舞鶴市の「赤れんがパーク」
被服支廠倉庫の行く末については、このブログでも2年半前から再三にわたり懸念を表明し、私なりの再利用法も提案してまいりましたが最早、誰も話題にしなければ地元メディアでさえ取り上げることはなくなってしまいました。残念ながらこの貴重な被爆建物は、何ら有効活用されることなく、ただ単に過去の遺産として”保全”されるだけの運命を辿ることとなりそうです。
建築物としてのこの倉庫群の特徴を挙げるとすれば「赤レンガ」ということになるでしょう。尤も、鉄骨レンガ造の歴史的建造物は全国に幾つも残されています。1907年(明治40年)に設立され、13年(大正2年)に竣工したRC(鉄筋コンクリート)の被服支廠倉庫と近しい沿革を持つ建築物としては京都府・舞鶴市の「赤れんがパーク」内にある倉庫群があります。
1901年(明治34年)、旧海軍舞鶴鎮守府が開かれた時代に帝国海軍によって建設された8棟で、現在「赤れんが博物館」となっているその内の1棟は、1903年(明治36年)に建設にされた舞鶴旧鎮守府倉庫施設魚形水雷庫であり、鉄骨レンガ造としては日本に現存する最古のものと云われています。
2008年に国の重要文化財に指定された同館では、世界42カ国からレンガ資料約1900点を収集し、そのうち約300点を展示。世界のレンガの歴史を辿ることが出来ます。個人的には興味深い内容となっていますが、他の例を見ても国の重要文化財に指定された歴史的建築物の大半は、こうしたローカル・コンテンツの展示に留まり、観光客を誘致するほどの訴求力は有していません。この点は、十分に認識しておく必要があるでしょう。
また、「赤レンガ」の代表的建築物としては神奈川県・横浜市の「横浜赤レンガ倉庫」(旧・新港埠頭保税倉庫) が知られています (現在は大規模改修工事のため年末まで休館中)。被服支廠倉庫の保全を唱える方々の中には安易にも、(建築関係者を中心に) 開業20周年を迎えた同・倉庫を再利用のモデルとして挙げる向きもありますが、その内容は似て非なるものです。
何が違うかと云えば、先ず以て保全に向けた行政の姿勢、そして市民の熱意の有り様です。赤レンガ倉庫は実家に近いこともあり、その変遷はつぶさに見聞きして来ました。埋め立て地の新港埠頭に1号倉庫が建設されたのは1913年(大正2年)のこと。横浜港における港湾事業の需要拡大により、明治政府が威信をかけて総工事費100万円を投じて建設しました。関東大震災で1号倉庫は半壊したものの、太平洋戦争中は奇跡的に空襲から免れてもいます。
しかしながら1970年代に入ると貨物量が激減し、1989年(平成元年)には老朽化と相まって倉庫としての役目を終えました。当時、赤レンガ倉庫の所有権は国にあったため、横浜市は大蔵省(現・財務省)と折衝を重ね、倉庫と土地の譲渡契約を締結。晴れて市の所有となったのは1992年(平成4年)のことでした。
神奈川県・横浜市の「横浜赤レンガ倉庫」
さて、ここからの対応が横浜市と広島県とでは180度異なります。横浜市港湾局は有識者らを交えた「赤レンガ倉庫保存改修検討委員会」を即座に設立し、同・倉庫を歴史遺産として保全するのみならず、市民の要望、ニーズに資する施設として利活用する方策の検討を進め、構造補強や外装修復工事を施します。1号倉庫は文化施設、2号倉庫は商業施設とする方針をいち早く打ち出し、事業主体をコンペで募集。2000年7月にはキリンビールやサッポロビール、ニュートーキョーの共同出資による(株)横浜赤レンガが設立されました。
つまり広島県のように再利用法は未決であるにも関わらず国の重要文化財指定を狙うといった後ろ向きな消極策ではなく、官民一体となった”攻めの姿勢”で利活用に取り組んだわけです。横浜市は民活方式による事業化が困難となる重要文化財ではなく、敢えて通商産業省が主導する「近代化産業遺産群」にアプローチを試み、赤レンガ1号・2号倉庫を「『貿易立国の原点』横浜港発展の歩みを物語る近代化産業遺産群」の構成遺産とすることにも成功しています。
一方、市民も横浜青年会議所が音頭を取り、赤レンガ倉庫を保全する応援団「赤レンガ倶楽部・橫濱」を起ち上げ、建築家やマスメディア、環境プランナーらを巻き込み、活発に利活用法を議論し、市民の理解と関心を高めて行きました。
結果、(株)横浜赤レンガは初年度、2号館だけでも680万人もの利用者を呼び込み、売上高は約48億円を記録。当時と比較すれば人気は下降線を辿っているとは云え、新型コロナウイルス感染拡大前の2018年決算でも16億7400万円の売上を計上しています。
私は、こうした横浜赤レンガ倉庫の積極的な取り組みに身近に接して来ただけに広島県の、そして広島県民の未だ”負の遺産”にのみこだわり続ける”保守的”な性向、市民運動の脆弱さ、さらに云えば、「文化」に対する考え方、アプローチの違いを痛感して来ました。
被服支廠倉庫が歴史的に重要な被爆建物であることは云うまでもありません。しかしながらこの倉庫群を県民のみならず、広島を訪れる国内外の人々にとっても魅力ある施設に生まれ変わらせなければ、国の重要文化財といった衣を纏った単なる”墓碑”に終わってしまうことは火を見るよりも明らかです。こうした近未来予想図が明らかであるにも関わらず、広島県民からは未だに有効かつ現実的な利活用法が何ひとつ提起されてはいない。残念ながら、それこそが広島の紛うことなき現状、思考停止状態であり、都市としての「停滞」の証左でもあります。