広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式典 (平和記念式典)
今年も広島市では先月6日に「広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式典」 (平和記念式典)が、長崎市では9日に「長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典」 (平和祈念式典) がしめやかに執り行われました。
今回、長崎市がイスラエル国に対して式典への招待状を出さないとの決断を下したことから米国を始め、英国、カナダ、フランス共和国、ドイツ連邦共和国、イタリア共和国、欧州連合 (EU) の大使らが出席を見送るといった深刻な事態に発展しました。
今回の”騒動”を通じて明らかとなったのは、両市の国際感覚の欠如と「恒久平和」に対するスタンスの揺らぎです。国際社会は、例え戦争・紛争にコミットしてはいなくとも、水面下では熾烈な”死闘”を繰り広げています。一触即発の危機的状況に立たされている国を数え上げれば切りがありません。
ラーム・エマニュエル駐日米国大使は、AP通信の質問に答えて「長崎市のイスラエル国を招待しないといった決断は、政治的問題を引き起こす」 (it was “politicized” by Nagasaki’s decision not to invite Israel .)と、出席見送りの理由を説明していましたが (先月7日付)、ここで云う「政治」とは「国際政治」を意味します。好意的に捉えれば、暗に「式典はこれまで、政治的要素を排除した中立な”場”ではなかったのか?」といった問いかけでもあります。
長崎市の鈴木史朗市長は「政治的な理由でイスラエル大使に招待状を出さなかったのではなく」と弁明されていましたが (同27日の定例会見では「色んな国際国内の動きを総合的に勘案して判断した」と微妙に表現が変わっています)、招待国を”恣意的に”セレクトすること自体、国際社会においては”政治的判断”と見做されます。国際感覚を備えていれば、各国の反応は予め予想されていたはずです。
鈴木市長は続けて「あくまでも平静かつ厳粛な雰囲気のもと、円滑に式典を行いたい」とその理由を語っていましたが、警備体制の確保は我が国の”国内問題”であり、他国にとっては預かり知らないことです。
欧米の対応を云々する声も聞こえて来ましたが、議論すべきは近視眼的事象などではなく、本質論です。「平和」を維持することは、我々日本人には想像が出来ないほど過酷であり凄惨なものです。本気で「世界平和」を訴える式典にしたいのであれば甘えるな、命を張って守り抜け、というのが国際社会の率直かつ真っ当な反応です。
そうしてこそ両市の式典は、中立な立場で平和を訴える類い希なる”場”として尊敬を集め、全世界の人々から真の”聖地”として認識されるでしょう (国内では、長崎市長の判断を支持する意見も多数寄せられたようですが、それは取りも直さず日本人の被爆地に対する理解が薄れている証左とも云えます)。
そもそも紛争当事国であり核兵器保有国でもあるロシア連邦、核兵器を保有しているとされるイスラエル国にこそ式典に参加して頂き、被爆の実相を直視し、絶対に核兵器を使用してはならないとの決意を新たにして頂くことに意義があったのではないか。
長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典 (平和祈念式典)
今回は、パレスチナ自治区ガザに軍事攻撃を続けているイスラエル国への対応が問題視されましたが、その発端は2022年 (令和4年) に広島・長崎両市が、ウクライナに軍事侵攻したロシア連邦ならびにベラルーシ共和国に対して招待状を出さなかったことにあります。
私はこのブログでも2年前から両市の対応には疑問を呈して来ましたが、要は誰のための式典なのか、何のための式典か、ということです。被爆地における式典は、全世界の人々が被爆によって尊い命を奪われた方々に想いを寄せ、慰霊し、二度と同じ過ちは繰り返さない、と心に誓う時空ではなかったのか。
広島市が掲げる広島平和記念都市建設法の第一条では「この法律は、恒久の平和を誠実に実現しようとする理想の象徴として、広島市を平和 記念都市として建設することを目的とする」と記されています。この「恒久平和」 (Permanent Peace) を市は、そして広島市民はどのように捉えているのでしょうか。現時点で紛争中の国または地域だけを対象とした”水平ベクトル”なのか。それとも50年後、100年後をも見据えた”垂直ベクトル”なのか。今、広島・長崎両市に問われているのは、「平和」と真剣に対峙する覚悟以外の何物でもありません。
現代の戦争は、何10年も継続するわけではありません。経済的、社会的、倫理的理由によりやがて停戦交渉が始まり、表面上は”終戦”を迎えます。その際、両市はロシア連邦に対して再び招待状を送るのでしょうか? イスラエル国へは? いかにも”儀礼”を重んじる日本的対応ですが、相手国にしてみればこれほど虫のいい話はありません。「いや。広島・長崎市は平和の式典と謳いながら、”政治的理由”から我々を排除したではないか。今更、中立だと云われても信用は出来ない」となるのは火を見るより明らかです。
オリンピック競技大会と同じく一度でも政治的判断・選択を行えば、様々な問題が次から次へと噴出して来ます。先ず以て問われるのは「広島市にとって、長崎市にとっての”平和”とは何か?」の定義付けです。これを明確にした上で、招待国を取捨選択せざるを得なくなる。また、例えばミャンマー連邦共和国のように軍事独裁政権が同国民を虐殺している国はどうなのか? 「平和国家」と云えるのか? といった判断も迫られることとなるでしょう。
国際社会は、明解な定義付けなくして両市の判断を受容するほど緩くはありません。曖昧さは許されない。政治的選択を行えば行うほど、被爆地・広島、長崎の「平和」の価値は失墜し、やがて形骸化した”平和イベント”に成り下がる。果たしてそれは、原爆によって尊い命を奪われた方々が望む「広島」、「長崎」の在るべき姿なのでしょうか。「平和」は、黙っていても”空から降って来るもの”ではなく、あくまでも自らの力で勝ち取るものです。
繰り返します。広島・長崎両市は、紛争当事国であろうが例え独裁国家であっても、国連加盟国・地域すべてに向けて招待状を送付すべきです。林芳正官房長官が先月8日の記者会見で「式典は長崎市主催行事だ。各国外交団の出欠についてコメントする立場にない」と述べたように、日本政府の思惑に忖度する必要などまったくありません (日本政府自体、長崎市に招待される立場にあります)。出席するか否かは各国独自の判断に任せれば良い。式典そのものが一貫して「恒久平和」の意義を訴え、政治的にニュートラルな立ち位置を堅持し続けてさえいれば、市が選択せずとも不参加の国は、自ずと国際社会によって断罪されます。広島市、長崎市は一体、どこへ行こうとしているのでしょうか。