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1955年(昭和30年)、開館間もない広島平和記念資料館。

 

   私が、「広島」に魅せられた理由のひとつが、この地からは、日本という国の縮図を見て取ることが出来たからでした。富国強兵から敗戦へ。奇跡の復興を経て経済大国にまで登り詰め、「停滞」と「断絶」を繰り返しながら惑い、諍い、堕ちて行く姿は、近代〜現代日本の写し絵そのものでした。そして悲しいかな「広島」は、今もこの国の「没落」を体現しています。

 

「広島」は、極めて保守的な土地柄です。排他的とも聞き及んでいたため、8年ほど前に拙著『平和の栖〜広島から続く道の先に』の取材・執筆で、本格的に広島と契りを結んだ際には、「広島もん以外に何がわかるんじゃ」と、すげなく門前払いされる覚悟で臨みました。しかしながら幸運なことにも、特に被爆者の皆様が大きくその手を広げて受け入れて下さったお陰で、何ら疎外感を抱くことなく溶け込めることが出来ました。

しかしながら数年前から、徐々にその頑迷な「保守性」に気づくこととなります。変化を望まない、新規性には眉をひそめる。かと云って自律的に改善を試みるわけでもない。唯々、時の過ぎゆくままにその身を任せ、時代と共に漂い、大切な「理念」をも自ら骨抜きにしてゆく。溶かしてゆく。それは、私たちが当然そこにあるものとして捉えて来た「良識」というものが、音を立てて崩れつつあるこの国の姿そのものでもあります。

 

原爆一周年の記念日を迎え、平和確立への決意を新たにするものである。

 広島は軍都なるが故にかくも苛酷な原爆の洗礼をうけたが、

 これがかえって終戦を導くところとなった。

 今こそ平和復興のために、広島の地に政府の特別の援助をもって

 平和都市を建設し、世界平和のメッカとなることを広く宣言する。

 

   これは敗戦の翌年、1946年(昭和21年)8月5日に広島護国神社址において開催された『広島市平和復興市民大会』(現在の平和記念式典〜広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式の前身)で朗読された『大会宣言』です(宇品連合町内会長の山田助松や皆実連合町内会の松島彌会長、舟入連合町内会長の大内義直らが起草)。

   この『広島市平和復興市民大会』は、1925年(大正14年)以来、広島市会議員を5期、27年からは広島県会議員を2期にわたり勤め上げ、当時は広島市町会連盟会長の座にあった任都栗司が、私費を投じて行った「全市民総蹶起運動」の一環でした。

   連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)の検閲を意識した文面とは云え、原爆投下から僅か1年後のことです。「平和都市を建設し、世界平和のメッカとなる」。何と云う気高くも凜々しい「宣言」でしょう(任都栗が掲げたこの「理念」は、翌47年に開催された第1回「平和祭」の浜井信三市長の「平和宣言」へと受け継がれて行きます)。

 

平和の鐘を撞く浜井信三第20代広島市長。

 

    一方、広島市は先々月、ロシア連邦のウラジーミル・プーチン大統領とミハイル・ガルージン駐日大使へ、来月6日に開かれる平和記念式典(広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式)の招待状を出すことを見送りました。

   広島市が標榜する「国際平和文化都市」とは何か? その時々の国際情勢によって招待客を選別するのが「世界平和のメッカ」なのか? 日本政府の要望を素直に聞き入れ、崇高な「理念」でさえも場合によっては取り下げるのが被爆地・広島市の「信義」なのでしょうか?

 「聖地」とは、思想信条はもちろんのこと性別や人種、宗派を超えて、平和の祈りを捧げる中立性が担保されているからこそ尊ばれるわけです。先のこのブログにも綴ったように平和記念式典とは、実際に軍事侵攻を行い、核兵器の使用も辞さないと威嚇している当事国の代表にこそ、戦時における被爆地を訪れて頂き、資料館に並べられた非戦闘員たる一般市民の遺品や被爆した品々をその目にしっかと焼き付け、無念の死を迎えざるを得なかった方々の慟哭に耳を傾けて頂き、絶対に、二度と核兵器を使用してはならない、と心に期して頂くためのものなのではないでしょうか? そのためには広島市、広島県警のみならず市民が、例え”敵国”であろうとも身を挺して招待客は守り抜く。そうしてこそ、世界から「聖地」として崇められるのではないでしょうか?

 

平和記念式典は今や形骸化し、イベント化してしまっているのは確かです。しかしながら任都栗司や浜井信三を始め、人類史上最も苛烈な地獄を目の当たりにした広島もんたちはかつて廃墟に佇み、明日の食事もままならず、いつ”爆発”するかもわからない原爆症をその身に宿しながらも、血の汗を流しながら「世界平和」を希求し、粗末でありながらも「平和式典」を執り行いました。

 

この国のリーダーは誰も、腹を括らなくなってしまったようです。また広島市民も、誰ひとりとして事の重大さを認識してはいないようです。「世界平和」を守り抜く覚悟も矜持もないのであれば、「聖地」だの「メッカ」だと口にするのもおこがましい。抜け殻となった、魂が抜かれた平和記念式典などいっそのこと止めてしまえばいい。そうすれば革新系が忌み嫌う内閣総理大臣がわざわざやって来てメッセージを朗読することもなく、右翼の街宣車が市内を走り回ることもなく、静かな慰霊の日を迎えることが出来ます。皆が揃いも揃って「守り」に入り、無関心に毒された今の広島市民からは、さしたる反対の声も出ないでしょう。皆さんの念願通り、広島の戦後を形作って来た、先人たちが命を張って積み上げて来たアイデンティティは物の見事に消滅し、「のっぺらぼう」な一地方都市に成り下がることも出来ます。2022年(令和4年) 8月6日。この日は、戦後初めて”平和の鐘”が鳴らなかった日として記憶されることでしょう。

 

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