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〽 こよなく晴れた 青空を

   悲しいと思う せつなさよ

 

77年前の今日、1945年(昭和20年) 8月9日午前11時2分。長崎上空を覆った積雲の切れ目から、偶然にも姿を現したのは原爆投下目標地点から3キロ離れた「浦上」 (松山町17番地) 市街でした。あの日、あの朝、あの刹那、青空さえ顔を覗かせていなければ…。

 

〽 うねりの波の 人の世に

   はかなく生きる 野の花よ

 

爆心地から1キロ以内のエリアでは、強烈な爆風や熱線により住民の殆どが即死。長崎市原爆資料保存委員会の調べによると人口24万人の内、7万3884人が死亡、重軽傷者は7万4909人にも上りました。

また、辛うじて命を繋ぎ止めた被爆者の方々には戦後、あろうことか凄惨な社会的差別が加えられるといった新たな地獄の日々が待ち受けていました。原爆の非人道性は、瞬時にして命を奪う、街を消し去るだけではありません。炸裂後、半世紀以上にもわたり人間の醜い本性を、臆面もなく曝け出します。

 

〽 なぐさめ はげまし 長崎の

ああ 長崎の鐘は鳴る

 

   (『長崎の鐘』 作詞 サトウハチロー 作曲 古関祐而)

 

   原爆によってほぼ原型を留めないまでに破壊されたカトリック浦上天主堂の北方約30メートルから、吹き飛ばされた仏製の鐘楼”アンジェラスの鐘”の一部が発見されます (直径1メートル、高さ85センチ)。仮設の支柱に吊り下げられ、再びこの鐘が鳴らされたのは同年12月24日、クリスマスイブ、降誕祭の夜のことでした。

   ”アンジェラスの鐘”が”長崎の鐘”と称されるようになったきっかけは当時、長崎医科大学放射線科部長であった永井隆博士が『長崎の鐘』を著したことによります。以来、この鐘は血の汗と涙を流しながら生き続けた被爆者たち、復興に取り組んだ市民らを「なぐさめ はげまし」、「長崎を、最後の被爆地にする」といった彼らの崇高な決意の象徴ともなりました。

 

   今日も、長崎の鐘は鳴る。原爆によって尊い命を亡くした方々の想いを乗せて、鐘は鳴る。全国に、世界に響き渡るその鏗鏗は、静かに問いかけます。人間の美醜、歴史の光と影を知ったあなたは、今日からどんな歩き方をしますか、どんな生き方をしますかと。

 

合掌。

 

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