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ビクトリア・オノプリエンコ選手

 

今月22日夜に放送された『サンデースポーツ』(NHK) の中で、安全な練習環境を求めて群馬県・高崎市を訪れているウクライナの新体操選手団が紹介されていました。

 

東京オリンピックで個人総合10位となった同国のエース ビクトリア・オノプリエンコ選手は「自分の国や町にミサイルが飛んで来て、誰の命も保障されていません」と顔を曇らせ、父親も祖父も兵士として最前線で戦っているという彼女は、

「自分を支えているのは、ウクライナ人としての自覚です。最強の男たちが私たちを守ってくれています。私たちが安心して眠れるように、彼らは眠らずに戦っています。私たちが試合に勝つことがウクライナの兵士たちを励ますことに繋がる」と話していました。

まだ19歳になったばかりの乙女の言葉です。平和な世であれば、停電も断水もない練習場で思う存分トレーニングに打ち込み、チームメイトと無邪気にはしゃぎ合い、恋もしていたことでしょう。

「戦争によってウクライナ人は精神的に大人になりました。みんな勇敢になったのです」と語るオノプリエンコ選手の凛とした表情を、私は胸が締め付けられる思いで観ていました。

 

「ロシアが戦闘を止めれば、戦争は終わる。ウクライナが戦闘を止めれば、ウクライナは消滅する!!!」 (If Russia Stops Fighting, There will be No War. If Ukraine Stops Fighting, There will be No More Ukraine!!!)  と書かれたプラカードを掲げてデモに加わるウクライナ女性

 

精神分析学者の土居健郎氏が著した『「甘え」の構造』(1971年) を例に挙げるまでもなく、日本人の幼児性はこれまでにも幾度となく論じられて来ました。特に「戦争」や「平和」といった抽象的な概念ともなると、大の大人までもが感情論をぶつけ合い、堂々巡りの議論を繰り広げる。冷静に国際情勢を分析し、地政学に基づき社会的、経済的リスクを算出することがまったく出来ない。政治家や有識者と称される方々はもちろんのこと、実戦経験のない自衛隊の統合幕僚監部でさえ、机上の空論に終始しています。

大半の日本人には戦争体験がなく、78年間もの長きにわたり「平和」を享受して来ました。それが未熟さの原因かと問われれば、帝国陸海軍を有していた戦前においても大局的な視野の欠如が、この国を最悪の結末へと導いたため、少なくとも近代以降の日本人特有の精神構造と云って良いでしょう。

 

昨今、「新しい戦前」といった言い回しを良く耳にします。必ずしも新しい表現というわけではなく、最初に口にされたのは作家の野坂昭如氏だったか、小田実氏とお話しした際にも近しい考察を伺った記憶があります。けだし名言ですが、私はこうした言い回しがSNS上で氾濫し、著名人が公言する現状に寧ろ、えも云われぬ危機感を抱いています。

そもそも口角泡飛ばして「新しい戦前」を唱える方々は、「戦前」と「現代」との差異を知ってか知らずか敢えてぼかすことで、近似性のみを強調しているかのように見受けられます。何よりも知識でしか「戦争」の実態を知らない。このブログでも何度か指摘したように、僅かながらでも現代史を囓っていれば、今の日本は「戦前」とはまずもって戴く憲法が違い、軍隊の有無や社会・経済・産業構造からして「戦前」とはまったく異なる国家体制であることがわかります。

 

こうした言説を説く人々は、この国にうっすらと漂い始めた「得体の知れない不安感」を、ここぞとばかりに「新しい戦前」といった据わりのいい”記号”に置き換え、溜飲を下げているに過ぎません。そのため議論が白熱すると、必ずと云って良いほど「人間愛」や「博愛主義」を持ち出します。なぜでしょう。それは歴史の知識が乏しい上に、歴史を真摯に学ぼうとはしないからです。学ぶことを端っから放棄している。本来であれば、安全保障の原点に立ち返り、冷徹かつ緻密に現状を分析し、適切な対処法を構築すべきであるにも関わらず、観念論に逃げを打つ。そこに我が国特有の「甘え」に立脚した現状分析の脆弱さが見て取れます。

「新しい戦前」といった言い回しによって、日本国民の大半を占める無党派層 = 保守中道の”恐怖心”は不必要なまでに煽られています。”怖れ”を喚起すれば彼らが「防衛費の削減」に動くかと云えば、現実はまったく逆の道筋を辿ることとなるでしょう。畢竟、防衛力を強めることで国を守る、といった方向へとシフトして行くことは、ここ数ヶ月の世論動向を見ても明らかです。まさに自らの不用意な言動によって、「新しい戦前」を呼び込んでいる。云ってみれば”軍拡”の片棒を担いでいることにさえ気づいていない。

 

ソビエト連邦の一員としてソ連政府・共産党の影響下にあったウクライナでは、共産主義特有のモザイク・タイル壁画が数多く制作されました。これは東南部セベロドネツクにあったスケートリンクの壁面で、新体操がモチーフとなっています (ロシア連邦によるウクライナへの軍事侵攻によって昨年、破壊されました)。

 

日本人は、オノプリエンコ選手が言い表したウクライナ人のようには、戦争によって「精神的に大人」にはなれなかった。戦時中、あれだけの犠牲者を出し、辛酸を舐めながらも哀しいかな、十分には「成長」することが出来ませんでした。その理由は戦時中、戦線に赴いていた軍人・軍属、戦地に居住していた方々、そして琉球列島・北方領土におられた方々を除いて大半の日本人は、空襲による”被害”は受けたとは云え、”加害”を伴う真の「戦争」は体験しなかったことにあります。幸運なことにもウクライナのような”本土決戦”は回避することが出来た。他国によって直接統治 (植民地化) されることは辛うじて免れることが出来ました (云うまでもなく琉球列島・北方領土を除いて)。

 

この瞬間にも空爆の危機に曝されているウクライナの人々に向かって「降伏すればいいではないか。生きてさえいればまたチャンスは訪れる」などと、生命や財産の安全が確保されている遠隔地から云い放つのは簡単です。しかしながら、少しでも世界史を囓っていれば有史以来、大国によって滅ぼされ、大虐殺によって民族が途絶えた例は枚挙に暇がないことがわかります。

ウクライナは帝政ロシア、旧・ソビエト社会主義共和国連邦 (旧・ソ連)、そしてロシア連邦との数世紀にもわたる確執により、国土を蹂躙され、国民を惨殺され、文化を破壊され続けて来ました (1932年に旧・ソ連のスターリン政権によって計画的に引き起こされた大飢饉ホロドモール [Голодомо́р] をウクライナ人は決して忘れてはいません)。白旗を揚げれば民族が殲滅される、といった悲壮感を抱きながら彼らが身を挺して戦っていることなど、甘えていても運良く国家が存続した私たち日本人には到底理解は出来ないでしょう。

 

国を守る、国民を守る。防衛論議がこれまでになく活発化している今こそ、私たちに求められているのは「新しい戦前」に怯え、喚き散らすことではなく、我々が地道に築いて来た「戦後」を決して諦めない覚悟を新たにすることです。以前にも書きましたが、右翼と左翼の共通認識である「この国は壊れつつある」といった曖昧な言説に惑わされることなく、地に足の着いた安全保障を自ら創造し、実践することです。悪政に対して「怒ること」は大切ですが、愚にも付かない「喧噪」を醸すだけでは、逆効果以外の何物でもありません。

少なくとも今後10年余りの間に我が国が他国を侵略する、もしくは他国から攻撃を受けることは一切ありません。浮き足立つことなく、況してや増長することなく現状をしっかりと見据え、今一度、日本ならではの「平和」を再定義すべき時が迫っています。オノプリエンコ選手は今日も、首都キーウに残された母親に電話をかけます。「お父さんから、連絡はあった?」