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僅かだったが僕にとっては樂しい樂しい意義深き日々でした

当地にての生活を身に 胸に抱いて元気で征きます

戦死の公報が入るまでは元気で戰ってゐるのだから

又決して犬死は致しません故 御安心下さい

 

これは義烈空挺隊の一員であった新藤勝少尉 (当時は曹長) が、空挺特攻作戦 (義号作戦) に出撃する3日前、1945年 (昭和20年) 5月21日に妻・房江さんにしたためた手紙の一節です。当時28歳であった新藤少尉は、その前年の11月3日に房江さんと恋愛結婚で結ばれたばかりでした。

 

   新藤勝少尉 (右) と妻・房江さん (宮崎放送より)。

 

先月19日(日)、平和祈念展示資料館 (東京・西新宿) で開催中の企画展『ある従軍カメラマンの追憶 義烈空挺隊員と家族の片影』にお邪魔させて頂き (来年1月14日まで)、切々と綴られたこの”遺書”と巡り逢いました。

義烈空挺隊とは、旧・日本帝国陸軍の空挺部隊によって編成された特殊部隊で (旧・神兵皇隊)、その目的は米軍占領下の飛行場に強行着陸し、九七・九九式手榴弾や二瓩柄付爆薬、三式手投爆雷、一瓩爆発灌などを用いて米軍の指揮所や戦闘機群、兵站施設を破壊することにありました。云ってみれば、特別攻撃隊の”露払い”といった役割を担っていました。

当初は、日本本土空襲へ向かう戦略爆撃機B-29の前線基地であったサイパン島のイズリー飛行場 (Isley Field) への攻撃が計画されていたものの、中継基地であった硫黄島が米軍の猛攻によって使用不可となったため1月30日に作戦中止命令が出されます。

4月に入ると沖縄戦が始まり、米軍によって占領された飛行場が、特攻を主体とする日本軍の沖縄方面への航空作戦には大きな障害として立ちはだかります。そのため義烈空挺隊の攻撃目標は5月19日、沖縄本島の北飛行場 (読谷村) と中飛行場 (嘉手納町。現・米軍嘉手納飛行場) へと変更されました。

 

   三角兵舎の前で写真に収まった義烈空挺隊員。前列右から2番目が奥山道郎大佐。

 

   出撃前、恩賜煙草で最期の一服をくゆらす隊員たち。

 

出撃は5月24日18時50分。奥山道郎大佐 (隊長。当時は大尉) 率いる第三独立飛行隊所属の168名の義烈空挺隊員は、12機の三菱 キ21 九七式重爆撃機に搭乗し、熊本市の健軍飛行場 (現・陸上自衛隊健軍駐屯地託麻原分屯地) から飛び立ちました (内、4機は発動機の不調により突入断念)。新藤少尉は、陸軍中野学校の渡辺祐輔少尉が指揮官を務めた12番機 (機体番号 4307) に乗り込みました。北飛行場へ向かった同機は、米軍の熾烈な対空砲火により撃墜され、乗員14名全滅。

唯一、北飛行場に強行着陸出来たのは原田宣章少尉が指揮官であった4号機のみ (機体番号 6540)。彼らの破壊工作によってF4U コルセア 艦上戦闘機3機、C-47 スカイトレイン輸送機4機、PB4Y-2 プライヴァティア哨戒爆撃機2機が炎上、大破したことが米軍の記録によっても確認されています (29機が損傷)。この奇襲攻撃により同・飛行場は翌朝10時まで使用不可となったものの、午後1時頃には最後の隊員が残波岬近郊で射殺され、義烈空挺隊員は全員、帰らぬ人となりました。

 

   九七式重爆撃機に搭乗する新藤少尉 (左から2番目)。

 

   機内で出撃待機する新藤少尉 (右)。

 

これらの写真は、帝国陸軍の渡集団 (第14方面軍司令部) 報道部教化宣伝部写真科長であった小柳次一氏によって撮影されたものです。彼は同年5月に健軍飛行場で義烈空挺隊の隊員たちと寝泊まりしながら丹念に取材を続けました。小柳氏は、その回想録の中で隊員たちは、

「出撃直前搭乗する時飛行整備兵に大事な非常食を 向こうへ着いたら、こんなもの喰う暇がないか ありあしないとほとんどの兵が残して行った」と、書き残しています。

従軍カメラマンたちが撮影した写真の中には、戦意高揚を意図したものだけに留まらず、前線の兵士たちに密着し、その生き様をつぶさに捉えたドキュメンタリー作品も多々あったものと思われます。しかしながら敗戦と同時に、各聯隊区司令部 (陸軍) と海軍人事部 (海軍) から機密文書焼却の指示が出され、写真の大半も失われてしまいました。本・企画展に展示されている数葉は、小柳氏が自宅に保管していた数少ない写真で、まさに”魂の作品”と呼ぶに相応しい貴重な”人間記録”となっています。

そこには、私たちと同じように泣き、笑い、怒りもすれば弱音も吐く、血の通ったどこにでもいる若者たちの姿が映し出されていました。彼らは「御国を守った英雄」または「大日本帝国の捨て石」であったのか。そのような軽慮浅謀な考えを抱いているようでは、決して「戦争」の意味を理解することは出来ないでしょう。

 

   僕は君に対して恥しい位です

   僕は身に余る良妻を得てほんとに幸福です

   何時もその事で此の胸の中は一ぱいです

   只々感謝致して居ります

 

(新藤少尉が昭和20年2月7日に房江さんへ送った手紙から抜粋)

 

 昭和20年5月24日18時50分。沖縄へ向けて健軍飛行場から出撃する義烈空挺隊。

 

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