震災遺構に選定された石巻市立大川小学校
2011年 (平成23年) 3月11日、東北地方太平洋沖地震 (東日本大震災) が引き起こした巨大津波によって、宮城県・石巻市では多くの小学校が跡形も無く流され、骨格のみを残して姿を消してしまいました。多くの掛け替えのない幼い命が、凍てつく泥流に飲み込まれ、四肢をもがれ、母の優しい笑顔を思い浮かべながら、天国へと旅立って行きました。
石巻市立大川小学校は、本震発生から約50分後の午後3時36分頃、目の前を流れる追波川 (新北上川) と富士川を遡上して来た大津波に巻き込まれ (越流津波と陸上遡上津波の複合津波で浸水深 8.7メートル、津波高 9.8メートル)、校庭に集合していた学校管理下にあった児童78名のうち70名 (4名は現在も行方不明) と11名いた教職員のうち10名の尊い命が奪われました。
現在は震災遺構として全体保存されている同校ですが、震災から4年を経た15年 (平成27年) の段階では、旧大川小学区内に住所を持つ住民490名の内 (324名が回答) 54.4%が「解体すべき」と市のアンケート調査に答えていました (12月3日付『河北新報』)。翌年2月に行われた公聴会に出席したある遺族も、「想像してください。もう生きて帰ることなんて望みもしないで、せめて骨1本 だけでもわが子の手がかりが見つかればと、津波で一変した故郷大川の地を来る日も来る日も掘る姿を。遺体で見つかったことを、ともに捜索した家族が手を取り合い涙して喜び合う姿を。5年たとうとしている今もいまだに家族の元に帰って来られないわが子の一部でもと、捜索し続けている遺族がいることを。できれば校舎を壊して探し切れていないところを捜索したいという思いを」と、悲痛な胸の内を吐露しています (2月13日付『日刊スポーツ』)。
「残骸を見るのも辛い」。こうした”残された者たち”、生き残ってしまった方々の葛藤と苦悩は、被爆の痕跡を残す広島市の原爆ドーム保存の道程とも重なります。終戦直後、広島県は爆心地付近を記念区域として保存する計画を打ち出し、「原爆十景」を選定します。当初は観光資源としての活用を念頭に置いていましたが、こうした被爆建物は被爆者に悲惨な体験を思い起こさせることから反対論が噴出します。事実、広島平和協会会長であった浜井信三広島市長も「問題になっている (原爆) ドームにしても金をかけさせてまで残すべきではないと思っています」と公言していました。
存廃論議に一石を投じたのは急性白血病のため16歳で亡くなった被爆者 楮山ヒロ子さんが残した日記の一節でした。「あのいたいたしい産業奨励館 (現・原爆ドーム) だけが いつまでも おそる (べき) げん爆を世にうったえてくれるだろうか」。ヒロ子さんが60年 (昭和35年) 4月に逝去した直後から、この日記に触発された小中高生たちによって作られた広島折り鶴の会が原爆ドーム保存を求める署名と募金活動を始め、全国的な保存運動へと拡がって行きました (広島市原爆ドーム保存事業等基金条例が設置されたのは、被爆から45年を経た1990年のことでした)。
津波が到達した時間で止まったままの時計
一方、大川小学校では津波で死亡・行方不明となった児童23名の19遺族が2014年 (平成26年) 3月、石巻市と宮城県を相手取り約23億円の損害賠償を求める訴訟を起こします。同校の一部学区が津波浸水予想区域に含まれていたことから「学校は児童が津波被災する危険を認識出来た」。また、堤防が地震で壊れる可能性も想定出来たとして「事前の予見義務があった」と主張。市教育委員会も「適切なマニュアル策定の指導義務を怠り」、校長は「学校の地理状況を確認せず、津波は来ないと即断しマニュアルを見直さなかった」と教育機関の組織的過失を訴えました。
それから5年の歳月を経て最高裁第1小法廷が、市と県に約14億3600万円の支払いを命じた二審・仙台高裁判決に対する市・県の上告を退けたことから、この事前防災の不備を指摘した初めての司法判断が確定するに至ります (19年10月10日)。
同判決が、学校現場の責任の重さを明確化し震災後、全国レベルで地震や津波を含む防災マニュアルの普及を押し進める一助となったことは明らかです。しかしながらその一方で、今回お会いした地元の方々からは、「我が子を失ったわしらは、裁判を起こすといった考えなど思いつきもしなかった。そんな心の余裕などどこにもなかった。しかも損害賠償でしょう。命は金には換えられんですよ」といった声も聞かれました。「あの状況下で、誰が適切な判断など出来たというのか」。
原告団は「裁判なんてしたくなかった」と発言してはいましたが、裁判を起こしたのは遺族の約3分の1。14年を経ても尚、”分断”は根深く、津波は命や財産のみならず地域の絆をも無残に破壊してしまいました。
海に向かってねじ曲がり倒壊している渡り廊下 (体育館通路)
また、「マスコミはなぜ大川小だけを盛んに取り上げたのか」といった批判も数多く耳にしました。「校舎が丸ごと流され、たくさんの生徒たちが亡くなった学校や、もっともっと苛酷な運命を辿った住民が山ほどいたのに…」。マスメディア、特にテレビや映画といった映像メディアは”絵”が撮れなければ成立しません。震災時の状況を語れる”生存者”が居なければ記事にはなりません。そのため、津波によって破壊された校舎が辛うじて残り、九死に一生を得た生徒たちがいる大川小学校にマスメディアは殺到しました。訴訟といった副次的要素も彼らの関心を集めた理由として挙げられるでしょう。
結果的に震災遺構に選定された大川小学校は、石巻市内に残る数少ないグリーフ・ツーリズム (Grief Tourism) のスポットとして、当初は多くの観光客やボランティア団体の”巡礼地”となりました。しかしながら前出の遺族は、「想像してください。ただただ、亡くなった方々に静かに手を合わせたいだけなのに、大型バスで乗り付けた観光客に哀れみの目を注がれることを。それが嫌で近寄れないことを。あの校舎をバックに記念写真を撮ることを見せられることを」とも訴えています。慰霊の場であるはずのこの学校跡地に、案内して下さった石巻の友人は「初めて来た…。辛くてね。来られなかった」と、小さく呟きました。
今や観光客さえ見かけなくなった広々とした運動場の跡地に立ち、私もその一員であるマスメディアの横行跋扈に憤り、被災地の”小さな声”と寄り添いながら、彼らの想いを伝えるにはどうすれば良いのだろうか。追波川を渡る冷たい川風は唯々、何事もなかったかのように、私の火照る頬を撫でるばかりでした。
体育館を囲む塀に描かれた卒業制作






































