先週19日、渋谷ユーロライブ (東京・渋谷) で開催された記録映画『カンボジア現代紛争史とNGOの43年』 (監督 三澤拓哉) の特別公開上映会ならびに関係者らによるセミナーに参加しました (主催 公益財団法人 庭野平和財団 協力 日本映画大学)。
同作品の制作委員会のメンバーで司会を務められた熊岡路矢氏 (元・日本国際ボランティアセンター 代表/元・国連難民高等弁務官 駐日事務所アドバイザー/日本映画大学名誉教授) のご案内で、カンボジア王国の過去半世紀にわたる苦難の歴史を改めて回顧する機会に恵まれました。
私が初めてカンプチア人民共和国 (現・カンボジア王国) を訪れたのは1987年 (昭和62年) のこと。当時は、ノロドム・シハヌーク殿下率いるフンシンペック、ポル・ポト派の民主カンプチア、クメール人民民族解放戦線といった3派によって組織された亡命政府 民主カンプチア連合政府 (CGDK) と、ベトナム社会主義共和国の傀儡政権であったカンプチア人民共和国 (PRK) との間で熾烈な内戦が続いていました。
首都プノンペンでは夜間外出禁止令が出されており、今は国際連合教育科学文化機関 (ユネスコ) の世界遺産に登録されている巨大寺院アンコール・ワットを最初に訪れた際には、政府軍兵士の護衛が付き、反政府武装勢力の襲撃を避けるべく滞在時間は2時間厳守とされました。プノンペン近郊の農村では灼熱の太陽に曝され、赤土から顔を覗かせた髑髏を幾つも目する時代でした。
80年代後半、日本ではまだNGO (非政府組織) といった概念が浸透しておらず、カンプチアで活動していたNGOは特定非営利活動法人 日本国際ボランティアセンター (JVC) だけであったことから、現地では熊岡氏に大変お世話になり、お陰様で幾つかのスクープ記事を書くことが出来ました。同国とベトナム社会主義共和国は私にとって、ジャーナリストとしての原点ともなった地です。
アンコール・ワットを警備するカンプチア救国民族統一戦線 (KUFNS) の兵士たち。ちょうど私が訪れた当時の写真ですが、組織名はカンプチア国家建設・防衛統一戦線 (KUFNCD) に変更されていました。
同国には、中国共産党に支援されたポル・ポトとクメール・ルージュが行った大虐殺により、ベトナム軍が侵攻した1978年 (昭和53年) に至るまでに150〜200万人もの国民が処刑または強制労働、栄養失調によって命を落とした凄惨な歴史があります。
近年、私が関わって来た広島においても、原爆投下による「被害」とアジア・太平洋戦争に加担した「加害」の双方を論ずべきとの主張が定着していますが、こうした議論を耳にする度に私は、カンプチアを思い起こします。
同国においてはかつて、国民同士が殺戮し合うといった想像を絶する悲劇が繰り広げられていました。いわゆる”キリング・フィールド”ですが「被害者」は「加害者」であり、逆もまた真なり。子が親に手をかける、生徒が恩師を虐殺する、といったケースも珍しくはありませんでした。そのため、ポル・ポト時代が終焉しても、文字通り貝の如く固く口を閉じ、誰も当時の出来事を話そうとはしませんでした。
広島でも、被爆による心的外傷後ストレス障害 (PTSD) のみならず、戦後受けた壮絶な社会的差別を怖れ、多くの被爆者が”貝”になりました。カンプチアでは、愛した伴侶が実は幼少期にクメール・ルージュの少年兵として殺人を犯していた、といった場合もあり得ます。「被害」と「加害」の同一性は、同国ではより深刻な人間不信として立ち現れ、そうした歪な社会構造が同国の戦後復興を遅らせた大きな要因であったとも考えられます。
カンボジア王国の平均年齢は26歳 (worldometer調べ。2024年)、国民の約半数が30歳未満となっています。ポル・ポト時代における大虐殺によって40代の人口が極端に少ない”若い国”であるだけに約半世紀を経て、彼らはいかに国民的和解を実現したのか。または未だ途上なのか。いかなる方法で、二度と繰り返してはならない惨禍を次世代に継承しているのか。それが私の最大の関心事でした。
“大虐殺を知らない子どもたち”が今や政治、経済、教育の主体となっている同国において、民主化を実現させるためには過去を知り、学ぶことを避けては通れません。広島で出会った同国からの留学生は、
「私は、広島があのグラウンド・ゼロからいかにして復興したのかに最も興味があります」と語ってくれました。被爆地・広島には、「被害」と「加害」を論じるだけに留まらない、もうひとつの大切な責務があることを、広島市民は知るべきでしょう。